見出し画像

7年ぶりの訪韓ドタバタ劇【14】幻の始発駅

 長々と続けております6月の訪韓記、13章にしてようやく2日目の夜という…

 さて夜が明けて滞在3日目の朝、前日が想定外の遠出となり(バスにカメラ置き去り事件)疲れてたのですが一応は起きられてよかったと…

 シャワー浴びて改めて目を覚まして、さあ三日目の朝に出発!

いつもの路地から
この朝は違う道へ

 いつもは路地をそのまま鍾路まで歩き、広蔵市場をチラ見してからどこかに行くのですが今日は趣向を変えて横道へ入り、ソウル恵化警察署の前を通り昌慶宮路へ。

 ふと横を見ると、なんとも大層な名前のビルが…。警察署の前に仁義ビルディングとは、これまたよくできた取り合わせだなと思うもそういやココの地名が仁義洞だわ…(そもそも何でこんな地名になったのか…と調べてみたら日本統治時代に地名整理のため統合変更する際に「元の地名に配慮なく創作」したものの様子。ニッテーよ…)

 韓国を旅すると、ときどきこういう場面に出くわします。ほぉ~と思って調べてみたら日本が関わって変えられたとか、朝鮮王朝での書物記録と地元口伝との齟齬(漢字語と固有語)に日本語としての漢字解釈や固有語の日本漢字への翻訳置き換えがイマイチうまく行っていないのに定着してしまい更に韓国漢字読みで同音の別字に置き換わるなどでメチャクチャになっているとか、色々と…。知見としては興味深いものなのですが、我らの先達のやってきたことへの「後味の悪さ」というか、なんとも心に引っ掛かる部分は、あるのですよね…

 固有語の日本語翻訳からの漢字当て字とかはまだ歴史の経緯が見えますが、地名「創作」となると元の歴史が「消えて」しまいますからね…仁義のもとに消えていった登子、碑石、新基、嘉井の、それぞれのマウル(村)の歴史を想うと…

登子洞、碑石洞、新基洞、嘉井洞および後井洞・蓮池洞の一部を
1914年に統合し「仁義洞」を創出したあとの地形図

 そんなこんなを越えて、さあ旅を続けよう。

昌慶宮路から鍾路へ
昌慶宮路は屋台通り、朝の軽食を買う出勤者。
今日も暑くなりそうだ…

 今日もまた、はじまりはバス。これから「北」へ向かいますが、まずは「東」へ。

 車窓に見えてきたのは昔の漢陽都城の城郭にあった「東小門」。清渓川から北へと標高が上がっていく尾根伝いに城郭が築かれていて、そこを小さな峠で越えていた街道筋の関門が恵化門/通称東小門。日本統治時代の道路拡幅と市街電車敷設で切通しとなり、城郭も城門も取り壊されていたのを1990年代に城門を再建と言うか再現(元の場所は切通しで消えているので北にずらして再建)、この形になった様子。近代化の過程でしょうがないとはいえ、近代日本は内地でも外地でも前の時代の施設を「用途廃止だから」と乱暴に扱いがちで何とも…

東小門「取り壊し」を報じる朝鮮日報記事

 さて東小門と言えば、日本統治時代の新聞にこんな記事が。

 ソウル中心街から市街電車が延伸され「北の玄関口」として発展が見込まれる東小門の門外・三仙洞から半島中部の鉄原方面へ私鉄電車を敷設、既存の金剛山電鉄(大規模な水力発電を行い売電を主業とした)と合わせて電気事業での収益も期待しようという構想が出て、沿線からの期待も高く「これでソウルにも立派な高速電車が」と期待された案件なのですが…

金剛山電鉄自慢の大型電車(日本車両の記録写真集より)

 さて東小門の門外の市街化進展や日本人の居住増加(洞ではなく町になっているところは日本が主導で地名変更したところでその多くが日本人居住区)もあり実現に向かうかと思いきや京城電鉄の構想が進みだした1938年は既に日中戦争の泥沼化で民間への物資統制が始まっており、同年5月には私鉄の新線敷設が「民需用鉄材不足」から免許保留(事実上の不認可)とされ、そのまま日本の敗戦・引き揚げで有耶無耶になり結果的には幻に終わった私鉄電車なのです。

東小門が取り壊され道が拡幅される前から
河川改修で市街化が進んでいた模様
各私鉄敷設「ストップ」と報じる朝鮮日報記事

 この「幻に終わった」私鉄電車の始発駅を、見てみたかったのです…

いまの三仙洞
市街電車があった頃の三仙洞
(地元再生有志団体の記録写真より)

 1930年代も後半になると郊外エリアの開発も進みだし、日本側のディベロッパーによる日本式住宅地が各地に作られ、それに対抗する朝鮮籍者側の動きもあり俄に賑やかになっていた頃で、ここ三仙洞も同様で…

 表通りから一歩入れば、往年の「建売韓屋街」が、残っていました。

もとの電車通りから脇にそれると…
その奥に、建売韓屋街が今も…

 東小門の門外、三仙洞の建売韓屋街は今も人が棲みマダン(中庭)には洗濯物がひらめき、ネオン看板からはリモデリングして活用する動きもある様子が窺えます。いい感じで残っていってくれればいいのですが…

 さてそんな建売韓屋街の向こうには…

橋が架かっています

 この川が城北川で、1930年代に流路固定と一部覆蓋(暗渠)化で新市街として開発されていった場所。その覆蓋された場所は日本人向け住宅街として分譲され、今もソウル有数の高級住宅街になっていたりします。

覆蓋された城北川と城北洞方面を望む

 城北川の覆蓋が進められていた1930年代後半、順調に進めばここも覆蓋されていたのでしょうか。そして「川」のラインは、鉄道が走るのにちょうどいい空間で…

城北川覆蓋の、終点。
続きのココに、駅が出来ていたのかな…
そんな気分で見たら私鉄電車の駅ヨコな雰囲気も…

 ここから出るはずだった京城電鉄は結局は未成となりましたが、その後また改めて動きがあり、ソウル市が1980年代に構想した地下鉄4号線が市北部区間では京城電鉄構想と被るようなルートで、それを市営ではなく「私鉄」として事業者を募って整備しようとしていたことがあり、歴史は巡るものなんだなぁ…と。

現在の地下鉄4号線ルート(青線)

 そんなこんなを想いながら4号線に乗ればまた風情も…とは思うけど、やっぱり景色が見たいからバスに乗って弥阿の峠を越えてゆきます。私鉄電車に乗った気分で…

 さて三仙洞からの街道筋は敦岩から弥阿の峠へと進むのですが、もう敦岩の辺りからけっこうな勾配で…

1960年代の敦岩洞俯瞰
上の写真と同じ辺りの現代の道

 この坂があるので市街電車は敦岩洞の麓までしか来なかった訳で、そして弥阿の峠はさらに厳しい坂道であり、大きな私鉄電車はここを越えられたのかどうか…(まあトンネルぶち抜きでしょうかね)

 いわゆる昔の「ソウルのつづき」は敦岩洞の辺りまでで、弥阿の峠を越えると完全に別の地域になる感覚だったようで、そしてこの峠道は王朝・行政の出先機関だった北漢山城への道やソウル周辺での有名寺院の華渓寺への参道にもあたり、これらの道が分岐する水踰里(大水踰)が拠点市街地となっていた模様。その水踰の今は…

 ここが、往年の水踰里/大水踰のまち。バス道沿いはビルも多く、脇には在来市場も多数あって「なるほど昔からの要衝」なんだなぁ…。まちは、続くんだなぁ…

バス道の裏手には商店街が縦横に
立派なバス道にも往年の街道を思わせるシーンが…

 そして水踰は、「いま」にも続き…

 昔の水踰から道を分かち坂を下りた「いまの水踰」の姿。地下鉄の駅もあり一時は郊外中距離バスの乗り場もあったのでプチ副都心的な市街地になっていました。脇道も賑わっていそうで、ここもナカナカ…

 う~ん、私鉄が走っていてもおかしくないような街を見て、歴史の「タイミング」の重みを、改めて感じたり…。京城電鉄の構想があと2年、いや1年早く動きだしていたら、もしかしたら認可が下りてここを私鉄電車が走っていたのかもしれないのになぁ…と思いながら乗る地下鉄の電車。いやこれも、もしかしたら私鉄電車だったのかもなぁ…

(つづきは下記に)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?