マティアス&マキシムと「枠」
新年一発目に映画館で見たのは「マティアス&マキシム」。
イニシャルが「M」の幼なじみの男2人が、友人の妹の短編映像作品に出演、ディープキスをしたところから始まる恋の物語だ。
恋の物語、と言いつつ、マティアスが自分の気持ちに向き合い揺れ動く心を軸に家族や友人同士の微妙な人間関係も描かれていき、とにかく俳優陣の演技がいい。繊細な表情の変化が映し出され、各シーン印象に残った。
その中で気になったのは「枠」を使った演出。
赤く縁取られたポスターに始まり(ただし国内版)、窓枠や、窓に貼られた麻布の破れ目(これは割と終盤)、吊された衣類の影(クローゼットの中から?)などなど、登場人物が枠の中にいるという構図が多かったように思い、意図的なものを感じた。
「額縁」としての枠
まず思い付くのは「額縁」の役割。
先述の有人の妹は撮影前、自分の1分余りの作品を紹介する際に(ちなみにこの有人と妹は自宅を見る限り裕福な一家で育ち、身に付けているものも高級そう。兄は妹の言葉遣いを何度も直し、育ちの良さがうかがえる)、「印象派のようであり表現主義的」などと称していた。
この言葉は妹が自信の作品を説明する際に用いたものだが、この映画全体においても、象徴的なシーンを印象もしくは表現主義、あるいはその両方として切り取り際立たせるための手法だったのかなと。
全編を通じて美意識を感じる映画ではあった。冒頭は手持ちカメラのような揺れが気になったところもあったが、撮影、つまりキス(ここもポスターにあるようにカメラで口元を隠すのがニクい)の後、マティアスが思わず地元民に「送ろうか」と言わせたほど遠くまで湖を泳いでしまうシーンなどは音楽も相まって見入ってしまった。
外側と内側を仕切る枠
枠は手前にあり、見ている側の立ち位置が明確になる。2人がついに通じ合うシーンでは外からのぞき見ているように見える。客席に座る私たちに、特別に登場人物の秘め事を見せてくれているような感覚にも陥る。キスシーンの撮影を窓の外から茶化す友人たちもまた、私たちと同じ位置にいたかもしれない。
こういう写し方は「プレデター」といったホラー映画で、追跡者の視点をあえて見せて恐怖感をあおったり、「2001年宇宙の旅」では内緒話をする人間の唇を読むHAL9000の視点を映して伏線を張ったりといった場面でよく見られるが、この映画のような見せ方はちょっと珍しいかなと。いや意識してなかっただけで一般的なのかもしれないが、やはり気になった。
社会的なレッテルを意識させる枠
まだまだ社会的にレッテルを貼られてしまいがちな同性愛を扱っているということで、見せ方だけでなく意味的な意図も考えたい。
LGBTという言葉はだいぶ浸透してきただろうか。多くの人が一度は耳にし、Qも含めそれぞれの意味までは分からなくても概念的には知っている人が大半だと思っている。しかし、それはまた新しい枠組みをつくっているだけかもしれないと感じることも多々ある。
昨年の傑作映画「ミッドナイト・スワン」で渚の面接シーン、面接担当の男性が「あーLGBTね、最近はやってるよね。勉強してるよ」みたいなことを話した。この男性に悪意は感じられなかった。しかし、こう言われて傷つく人もいるだろう。偏見にさらされつらい思いをしてきた人たちがまたくくられ、〝理解〟の名の下にまた辱められる危険性がある。
この映画では物理的、視覚的に「枠」を意識させることで、私たちが心に持っている「枠」を取り払おう、とまで意図したかは分からないが、やはり取り払うにも形を変える大切に持っておくにも、まずは意識下に置くことが大事だ。実際、この映画は同性愛がどうとかいうことではなく、ただ2人の人間がいて、恋をして、愛があった。そういう話だったのだから。
以上、個人の感想でした。
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