2012年11月14日 ストーカー殺人に見る道徳教育の必要性について。/2012年11月4日 「道徳とはなにか?」 ~自由と人権の中庸~
■2012年11月14日 ストーカー殺人に見る道徳教育の必要性について。
メール1000件超でも立件見送り ストーカー規制法に“盲点” 逗子ストーカー殺人
2012.11.8 23:39 (1/2ページ)[事件・トラブル]
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/121108/crm12110823400031-n1.htm
逗子のストーカー殺人を見て、私の同級生の多くは私を連想するだろう。
それくらい私も昔は特定の女性に依存し、固執していた。
だが、私が哲学者としていろんなところへ提言を出したりしているのは、そこまで思い詰めて、人文諸学を勉強して、たとえば社会学でもっとも評価の高いデュルケイムの主著「自殺論」に書かれる「悲哀」を克服して、あるいは社会思想で誰もが知るルソーの「社会契約論」の「人間関係は双方の合意によって成立する」という普遍的なテーゼを心に刻んで、20代での自殺や物理的なストーカー行為に走らず、今に至っている。
私が言いたいのは、そういった挫折を知らない、エリートの官僚や御曹司上がりの政治家では日本の犯罪、社会衰退を減らすことは絶対にできないということ。
カネや家柄に物を言わせてハーバード大学に留学したからと言って、一方的に関係を切られたり、同じクラスでもハナから人間関係に入れてもらえなかったり、孤立や挫折をとことん味わった人間でなければ、日本の社会衰退は克服できないのである。
―であるから、メールの内容であるとか、量であるとか、そういったものを法的に、あるいは条例で、たとえアメリカのように発信機を付けるなど、物理的な規制を作っても、全くムダであり、すべての人間が自由である以上は、本質的な解決には至らないのである。
一人の人間が「殺す」と意志した以上、それを何十年にも渡って四六時中監視することなど誰にもできないのである。それはストーカーに限らず、自殺や幼児虐待も同様である。
だが、周知のように日本人は道徳や哲学を、カルト宗教と同一視して嫌う。メディアも学校も「道徳 = 国体的」と嫌う。
よって今日の日本の社会衰退がある。
私は2009年の日本哲学会総会・哲学系四学会において「理性教育の必要性」を訴えた(反応は極めて悪かった)が、ストーカー殺人をなくすためには、その加害者の心に、「他者に依存(=固執)してはならない」という理性を訓育することである。性善説が基本でなれなれしさが原点の日本人には、共同体精神となれなれしさを混同してしまう人が私の目から見れば大半である。
要するに仲良くしようと思ってはいても、「尊重」はしていないのである。
他人は完全に他人なので、まず自分自身と完全に切り離したところから始めなければならないのだ。
その上で何かをしてもらったところに感謝があるというものである。
今の私が逗子の殺人事件の加害者なら、「1年間付き合ってもらってありがとう」。それで終わりだ。
彼は「1年間付き合ったのだから」と、その女性存在を完全に自分の「モノ」としていた。
自分の中で他者をモノ化する試みは、ヘーゲルの主人と奴隷の話や、マルクスの人間疎外、西田幾多郎の至誠の話などあるが、そのすべてがまさにそれを否定するのが歴史であり、至誠というように、考え方としては愚の骨頂である。そもそも死ぬということ自体を軽く考えすぎている。
それはまさに「自分を否定された」という悪魔的な怨念やモノに対する醜い執着であって、未熟な子供さながらである。私なんかは生まれてこの方100回近くはフラれて(私のタイプではない人から好かれたことも確かにあったけれども)、人からは終始嫌われっ放しで、社会からは終始否定されっ放しだ。
[でもヘーゲル哲学を念頭に極論させてもらえば、ニーチェにもかなり合致するけど、人から嫌われたり、否定されたりすることがまさに生きることのダイナミズムである。
逆に己を否定して、まさしく他者と同一となり、無となれば当然それは死である。
愛とは極論すれば他者との合一であり、無であり、死である。
日本で言う「愛」とは、セレブや成金がクリスマスに都心や横浜の高級ホテルで女と泊まって、EXILEやSMAPなどの商業的な世界観でムーディーになることのようなまがまがしさを言うが、いわくキリストの磔刑(たっけい)こそが愛の完成型である。
愛を極めれば、それは紛れもなく殉教者であり、それは俗人だらけとなった消費社会のこのご時世にはほとんどいないのだ。日本で一番愛が深いのは紛れもなく三島由紀夫その人である。彼と比べれば他の日本人なんてただの動物に過ぎない。
このストーカー加害者を突き動かした精神も、哲学的に見れば他者との合一であり、迷惑な愛と呼べるものなのかもしれない。
嫌われずに、友達同士でネチネチ仲良くする人も多いが、当然その仲間内の常識に支配されるので、独創的な生き方はできない。
それを悪いとは言わないが、嫌われたり、否定されることは生きることにおいては、そもそもすべての人が他人とは違うのであるから「常」なのである。
小林よしのりはハイデガーの「存在と時間」を読破したことを誇らしげに自著で語っていた。
しかし、彼に最も欠けているのは、ハイデガーの同著の肝である「配慮」と「語りによる相互の分離」である。彼は自分と異なる思想の一切の人に対する配慮に欠け、また些細な言葉尻を拾っては人を醜く描写する。しかし、全く同じ言葉なら当然無であるのだと。
また、宮台真司はミルや特にデュルケイムを研究して、社会学の第一人者であるが、周知の通り、テレクラマニアであり、ミルやデュルケイムがその主著の随所で強調する道徳に全く注目しなかった―。デュルケイムに至っては「道徳教育論」という本まで出しているのに…。
日本の著名な有識者には(どちらも女にモテまくることを大変鼻にかけているようだが)、哲学が、少なくとも道徳的な洞察力が決定的に欠けているらしい…。
哲学や社会学の書とは、ただ読めばいいというものではない。
どういう問題意識を持って学問をするかが重要なのだ。
話を戻すと、そもそも女の好き嫌いは直感的なものであって、理性で説明のつくことではないし、また、女はたくさんいる「類」と捉えるべきであって、個別的な感情はどうでもいいことである。
また、最も有名な文化人類学者のレヴィ=ストロース曰く「女性は関係の宝」と言われる女性との人間関係に依存してしまうこと自体が、自殺なども含めて今日の社会衰退の元凶ともいえる。
社会学者、宮台真司は「これが答えだ」の中で、今の世の中をそうした宝である女性との人間関係を増やす「強度(快楽)のゲーム」だと言ったが、その反対の「意味」にこそ、社会衰退を克服する手段があると私は思う。
なぜなら、男の多くが吉本芸人のように世渡りがうまく、或いは、EXILEや国民的アイドルのSMAPのように、端正に生まれ、軽薄でムーディーになれるのではない。
そうした「強度」の話は、私のような全くモテない、社会一般の男性から見れば、縁遠い話であり、よって、そうした社会一般の中でさまざまな事件が起きているというのである。テレビなどのメディアとは別の生き方を誰もが模索できない、社会問題のデパートのような社会こそがわが国日本である。
そうした馬鹿げた商業ベースの男性像の押し売りを続けるメディアに、それに没頭する女。いずれにしても、くだらない。
男ならもっとマシな生き方をしてみませんか?
■2012年11月04日 「道徳とはなにか?」 ~自由と人権の中庸~