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自分の内面が表に現れることについて(英語発音の話から派生した考察)


はじめに

前回、「【英語発音】外向けの発音と内なる発音」という記事を書きました。この記事は、私がプロフィールなどに「ネイティブと同じ発音が云々」と書いたことで、私のイメージを誤解されるといけないと思って書いたものです。いわば私なりの勝手な「言い訳」のような記事。「私だけに当てはまること」だという前提でいました。

ところが、この記事で触れた「内面」について考えるうち、ハッと気づいたことがあるのです。「発音」のところを「一般的な事柄」に置き換えてみると「けっこう普遍的なことを言っているのでは?」という気がしてきたのです。

そこで今回は、英語発音の話から離れて、「内面が表に現れること」について少し掘り下げてみたいと思います。

「こっそり反復行動」は内面の現れでは?

私が今回ポイントとして感じたことは、「人知れず、こっそり」しかも「繰り返し行う行動」ってのは、「内面があって、それが何かの形で現れているのではないか?」ということです。

生活の上で、なぜだか「人に見せない前提のもの」とか「人に見せたくない気持ちが働くもの」っていうものが結構ありますよね。

たとえばこんなもの。

<パターン>

  1. 誰も見ていないところでこっそり練習するもの

  2. 誰にも見せない前提のもの

  3. 公言していない習慣・行動パターン

  4. 見えないところにこだわること

<事例>

  1. 初めて何かにチャレンジする段階での練習。こういう時は恥ずかしいので「こっそり練習」することがよくあると思います。

  2. 部屋、引き出し、持ち物、衣類、日記など。身の回りにたくさんあると思います。

  3. 「ナニナニがある日は、ナニナニをしてから行く(ナニナニを持って行く)」など。残念ながら「誰もがうなずくような典型的な事例」が思いつかなかったのですが、結構あると思います。

  4. 物を作る際に「最終的に見えなくなるところまで丁寧に仕上げておく」ことなど。ちなみに、私は、幼少時から工作が好きで、この傾向がすごく強いです。

このような中には、「別に、人に見られたってなんてことはない」というものもあるでしょう。

でも、この種のものって、「別に隠す訳じゃないけど、何かひっかかって見せたくない感じがする」傾向があるように思います。人に「概略」程度は紹介することがあっても、決して「やっているところ」は見られたくない、みたいな感じのもの。

これって、何らかの心理が働いていますよね。「単純にシャイだから」ということではないし、「心を閉ざすのは良くないことだからオープンにしましょう」というたぐいのものでもないはず。

私は前回の記事を書いたのち、このような「自分でもよくわからないパターンのようなもの」って、「自分でも気づいていない内面を表している(つながっている)からではないか」と思うようになりました。

ちなみに、このようなことは、もしかしたら既に心理学などの分野で考察が行われていて、専門家からすれば普通のことかも知れません。でも、私は、自分が感じたことを大事にしたいので、この記事を書くにあたっては、何も調べないようにしました(脳のことや心理のことについて、多少の基礎知識はあります)。

どうしてそういうことが起こるか

まず前提として、おそらく、「内面(頭の中、心の中)で感じていること」というのは、「自分が感じていることよりも、もっともっと自由な世界」で、言ってみれば「ぶっ飛んでいる」のではないか?という気がします。

でも、社会規範とか、いろいろな「しがらみ」があって、そのままの形では意識に上らない。なので形を変えて現れている・・・日々の生活や、趣味の活動に乗せている(被せている)、そういうものではないか?という感じがするのです。

もっと単純な考え方として、「心の中にある願望などをそのまま行動に移すことは社会的に許されないので、その代償行為」というのがあると思います。でも私が今回取り上げたのは、そのような「いかにも」という現れ方のものではなくて、もっと間接的で関連がわかりにくいもの、しかも、日常でごく普通に行っていることの中にも、内面が現れているものがあるのではないか?ということです。

そういうものに対してどう向き合うか

1. 大事にしてあげる

自分の行動に関して、このような気づきがあったとしても、私は、「無理にその正体を解読しない方が良い」と思っています。おそらく、「意識に上がらないようにする規制のようなもの」は非常に強固で、こじ開けることは無理なんだと思います。

また、無理に解読しようとすると、間違った解釈をしてしまう恐れがありそうです。

とにかく、その内面にあるものを大事にした方が良いような気がします。

したがって、その行動が社会的に問題がないものであれば、原則として変えないで大事にして良いと思うのです。癖などにおいて「自分って、ちょと変?」と気にする必要はないのではないか、ということです。

もっともこれは、自他の健康・財産・安全等に悪影響がないことが大前提。

社会的に問題がない健全な行為であれば、「とりとめもない心の世界」と「現実の世界」のバランスを取ることが「うまく機能している」ということですから、脳の不思議として、ありがたく享受すれば良いと思います。

2. ゾーンを守る(不可侵領域を作る)

このような、なんとなく人に見せたくない行動というのは、きっと、「自分の内面が、自分の外側のゾーンに少し露出している」ということだと思います。だから、そのゾーンは不可侵になるようにした方が良いと思います。

そのためには、その行動を行うのに「絶対安全な環境」を整備するのが良いと思います。

「見られない」「聞かれない」という環境を作ることがベストですが、いつもそれができるとは限りません。

別に、「絶対的な秘密にする」とか「ガチガチに鍵をかける」とか、そういうこではなく、「見られても、聞かれても、相手は何とも思わないし、コメントもしてこない」という安心感がある状況を作ることができれば、それで十分なケースもあると思います。

たとえば、おおまかに「自分はこういうことをやっている」ということを公言して、物理的にちょっと距離を置く(見えにくい状況にする)ようにすれば、「心ある周囲の人」ならば、あえて距離を置き、内容を覗こうとはしないはずです。逆に、「関心がないフリをして、しっかり見ている人」もいるでしょうから、要注意ですけど。

3. さらに(内面との対話)

さきほど、「無理に内面の正体を解読しない方が良い」と言いました。でも、その趣味や習慣などを媒体として、自分の内面と対話ができるかも知れません。

自分の心について「かすかな気づき」があるかも知れませんし、行動に変化をつけることで、「内面にも多少の変化」があるかも知れません。

「部屋が散らかっているのは心の状態を表す」ということで、逆に「散らかった部屋を片付けると心が整理できる」みたいな話があったりしますが、それと同じような話。

ただ、「行動を変えると内面がガラッと変わる」なんていうことは、私は、世間で言われているほどは「ない」と思っています。内面が変わっていないのだから、そう簡単には行かない。故意にはできないことなんだと思います。

ありがちな「こうすればこうなるはず」という理屈は、実際にはそう簡単に成り立たないものです。ところが、取り組んだ方としては「うまくいったんだ」と思い込もうとして、かえっておかしくなる。まるで「コレコレを3ヶ月やったら劇的にこうなりました」みたいな、何かの宣伝文句みたいな成果を出そう(成果だと思い込もう)としてしまうんですよ、きっと。

そうではなくて、本当に「ちょっとした変化」をつけることで、徐々に徐々に、少しずつ、内面にも変化が現れるのではないか、と思うのです。

コントロールしようとするのではなくて、まさに「継続は力なり」。私の英語発音に関する考え方も同じなのです。

英語発音練習への応用

今回は、英語発音の話から離れ、内面の話をしたのですが、私としては、考えていくうち、結局、英語発音の話に帰着してしまいます。

今回、この原稿を考えながら、同時にいろいろなことが頭に浮かびました。特に「英語発音の練習環境」に関して。このことについては、別途、記事にしようと考えています。

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