「アルバム探し」 「旧友たちの急報」 「ばかもの」
「アルバム探し」
物を選んだりそれを探し歩いたり、分からないところを誰かに尋ねたりするのは、人との関わりを最小限に抑えたい私にとって、とてもとても骨が折れる。
それなのに、用途を見誤って買い間違えてしまったり、他人の言葉を鵜呑みにして「あぁやっぱり違った…」と思い至ったりすると、もう、ホントにホントに、嫌になる。
でもよく考えると、この試行錯誤ができる四肢と頭と経験とを持ち合わせている時点で、私たちは結構幸せなのかもしれない。それに、スマホを前に1人でそういう失敗に至ったところで、対人にまつわる学びごとは何一つないじゃないか。
ただ対人スキルを学びたいがためこの度フィジカルな買い物を選択したわけではない。これは少し、率直で、詩的すぎる一言で恥ずかしい気持ちもある言いようだけれど、この時ばかりはその探していたフォトアルバムに触れてみたかった。ただそれだけだった。
「旧友たちの急報」
受け取った招待状をすかりスーツケースに入れ忘れたまま、東京から地元へと正月ぶりに帰ってきた。高校時代の同級生が結婚式を挙げたのだった。
その式の後しばらくして今度は大学時代の友人であるRから、入籍して彼の奥さんが妊娠したとの電話を受けた。
結婚式で再会した高校の友人たちも、大学の時のRも、もうすっかり連絡をとっていなかったから、あまりにも突然すぎて、過去の記憶を引っ張り出すのに一生懸命だった。Rと電話で話していた時、あまりに私が大学の時の思い出や他の共通の友人の消息なんかを思い出せなかったり知らなかったから、『お前、友人関係全部リセットした?』なんていう冗談を飛ばされた。
前みたいに下品に笑って受け流したけれども、その一言は通話が終わった後も、コール音みたいにぽろぽろと、心にこだまし続けていた。
「ばかもの」
毎日触れていないと、その形がどんなだったか、人はすぐに忘れてしまう。でも毎日触れていても、その一面ばかりを見てしまって、実は細かなところを見過ごし続けてしまうかもしれない。
距離感が大事、べつにそういうわけでもないと思う。離れていても、くまなく隅々までわかることだってある。そうじゃなく、声とか、視覚とか、それとの身的距離をひしひし感じながら、なにか神託のように思いながら接する機会が必要なんだと思った。
私が探していたフォトアルバムも、ちょっと連絡が途絶えてしまってた友達とかもそうで。『あ、今ちょっと気になるな』とか『本当に見てみると/会ってみるとどんななんだろう』とか、そういう自分の感受性に従ってみることが必要なんだ、と。
それができていなかったわけで。感受性を守れていなくて、育んでやれていなかったばかものだったというわけで。
自分の中から生まれるものばかりに関心が向いていたから、そっちの方面の感受性は育ったかもしれないけど別のはどうだろう。フォトアルバムのこと、旧友たちのこと、それらに鑑みるに、どうもネグレクトが過ぎているように思う。
何かを世に放つことはとても大切かもしれないけれど、ただそれをやり続けるだけでは終わりはもうすぐそばに来てしまう。愛し育まれた感受性から、絞り出されたわずか一滴の雫のようにして生み出されるものに、きっと人々は目を見開く。「アルバム探し」と「旧友たちの急報」は、今の、発信一辺倒のばかものへの、一種の警鐘だったのかもしれない。
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『自分の感受性くらい』 茨木のり子
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