【Z世代のエッセイ】 ニューノーマルの自由がもたらす "不自由" さ
『最近なんだか、今まで気づいていなかった窮屈さに気づいて社会に対し
いろんな人が声をあげている姿をよく目にする。』
人種差別 や 性差 、職業差別、 ハラスメント、LGBTQs、SDGs...
既存の枠組み、決まりきった社会慣習に対し『それってそもそもなんで?おかしくない?こうあるのが理想でしょ!』と、誰でもどこからでも声をあげることができるようになりました。
【攻殻機動隊】のような世界線とまではいかないでも、デジタルアクセスさえできれば、思想や理念・慣習に対しての異議、占めていえばそうした ”情報” を自在にアウトプット/インプットできるような世界線であるが故です。
ある意味、誰にでも平等に発信・受信が可能に。稀有な情報(ソーシャルアクションやユニークな製品ローンチとか)が目まぐるしいスピードで伝播すようにもなっており、誰にでも開かれ、自由で伸びのびとした世界が扉をひらきつつあります。
こんな自由な時代だからこそ、
もっともっと自分らしく、自由に生きたいな。
さて、突然ですが【自由】とはなんでしょうか?またその自由から派生する【自分らしさ】とは、一体なんでしょうか?
あ、いや、当然、昨今のオープンな世界線に不平を投げかけている訳ではないです。むしろ僕もLGBTQsなので歓迎しています。
①『生理が辛い』それを生理体験のない男性がしっかり理解できる世界線、めちゃめちゃ良い世界じゃないですか。
② 10代でYoutuber 、『年商1億円』...すごいな拍手喝采、脱帽。
③ ギャップイヤーの大学生、『このシーズンは休学してインターン。社会勉強に充てる』なんって前向きな姿なんだ「今時の大学生なんて」と吐き捨てる人に見せてやりたい。.....
いま例示したような人をみれば、きっと誰もが『「自分らしさ」をしっかり発揮している人なんだな』、と思わされるでしょう。一つ、どの事例にも共通して言えることがあります。
① 生理に対する不寛容さを打破しようとする姿勢。
② 年齢という枠に収まらず、常に自己発信し続けようとする姿勢。
③ 先を見据え今に甘んじることなく努力をする姿勢。
それは、「何かにぶつかっていて、それを必死に打破しようとして踠いていること」でしょう。解き放たれた自由な社会に居ることに甘んじず、何かに向かって走り続けることこそが、自身を本質的な自由へ導いてくれるのかな、と思ったり...
自由な時代なんですから、誰にも迷惑をかけていないのであれば、「自分らしさ」を発露できているのであれば、何もしていなくたって好いわけです。(『なにもしない』こと や 『奢られる』ことを職としている方々は、彼らなりに「自分らしさ」を持っていることと思いますし)
ただ、自由だからこそ一体何に向かって頑張ればいいのか?頑張り方さえググれば出てくる時代、 不寛容さを打破 とか 枠に収まらず、とか 今に甘んじることなく とか... 多分、僕は「自由に生きる」を「ラクに生きる」と訳出してしまっているがゆえにこんなことを思っているのかもしれない。
今の時代は、自分らしさを求めるには、あまりに自由すぎる...。
私服登校がOKな高校では、一部の生徒が皆と同じような服装であることが往々にしてあるそう。自由な規律であるがゆえに、一部のみんなと仲間外れになるのが嫌で同じにしてしまいたくなるようなのです。
自由の中に見る不自由、まさにこれがウィズコロナのニューノーマル時代、Z世代をはじめとする若年層を襲っているように思えるてならないのです。
不自由という窓際に、時にはふ ともたれ掛かって一息つきたいんです、わがままですね。世間に怒られそう。あ、世間は、わたしか。