「偽家族」という愛のかたち
果たして、異性愛至上主義的な考え方は「正しい」のでしょうか。
TBS・7月期火曜ドラマ「西園寺さんは家事をしない」は、主人公の西園寺一妃が、ひょんなことからシングルファーザーの楠見俊直とその娘のルカとの3人で、「偽家族」という新しい関係性を構築していくドラマである。原作はひうらさとる氏の同名漫画。
私は、自担である北斗くんが楠見俊直役で出演すると知り、このドラマの視聴を決めた。個人的に、TBSの火曜22時枠といえば恋愛ドラマのイメージが強く、このドラマも例に漏れずそうなんだろうとなんとなく思っていた。
ところが、1話を観た時点でその予想は覆された。
俊直は、妻を亡くして1年経った今でも、妻のナスの焼き方を思い出して号泣してしまうような人だったからだ。そういった台詞は直接的にはなかったように記憶しているが、想いがあふれ出して涙を流す俊直の姿を見て、「これはただの恋愛ドラマではない」と思ったことを覚えている。ここでいう「恋愛ドラマ」とは、主人公と相手役が異性愛で結ばれる作品を指している。
それから一妃と俊直、ルカの3人は「偽家族」という新しい関係性を構築し、試行錯誤しながら日々を過ごす。
この「偽家族」という言葉を聞いたときの第一印象は、「フィクションだからこそできることだなあ」だった。現実的に考えて、法律上でも、戸籍上でも家族ではない人と家族のような関係値になるというのは、あまりにも机上の空論が過ぎる。現実でやろうと思ってもなかなか叶うものではないだろうと感じた。
ところが、ドラマ内での他の登場人物達の反応も私と似たようなものだった。フィクションあるあるの「周りの理解力が鬼」のようなシーンは少なく(強いて言えばルカの保育園の保護者達の反応)、大抵の登場人物は困惑していたところが、現実離れしすぎていなくてとても良かったように思う。
やがて、一妃と俊直は想いを通わせてしまう。2人の想いが通じ合いながらも、ルカの「パパのこと好きにならないで」を思い出し、家に帰る途中で繋いだ手をそっと離すシーンがあった。
この時点で私は、「やっぱり異性愛のドラマだったのか・・・?」と困惑してしまった。いや、この枠のドラマなら異性愛に持って行くのも無理はないし、俊直が新しい恋を始めようが本人の自由だし・・・などと理由をつけようとしたが、これまで描かれてきた「偽家族」を成立させるために奔走する3人の姿を思うと、本当にそれでいいのか疑問ではあった。
しかし、最終話ではまた一転、異性愛ではない新しい関係性を築いたまま、アメリカへ飛び立つ一妃と俊直、そしてルカの姿があった。この終わり方は、北斗くんが最終回放送直後のストーリーに書いていたように、「最高の結末で最高の最終話」だったように思う。これだけ異性愛の作品が溢れている現代で、男女間の新しい関係値を提案した、革命的なドラマだったように思う。
一妃と俊直の2人が隣にいることでまたルカが辛くなってしまわないか心配にもなったが、最終話にあった1シーンでそれは杞憂だと思い知った。ルカの目には、一妃と俊直の隣に瑠衣がいるように見えたのだ。それがもう全てだと思った。
さて、ドラマについてここまで書いてきたが、ここからは私の「異性愛至上主義的な考え方」について思うことを述べてみようと思う。
私は大学生当時、彼氏やパートナーにあたる存在がいなかった。それについて思い悩むことも特段なく、友達や所属する団体の先輩や後輩と過ごす日常に満足していた。
そんなある日、友人から「彼氏作らないの?」と聞かれたことがある。その友人からしてみれば雑談のひとつだったのかもしれないが、初めてされた質問に戸惑ったことを覚えている。彼氏がおらずとも過ごしていられる私からしたら、「女子大生は彼氏がいて当たり前」かのような認識の発言に衝撃を受けた。
必ずしも異性愛を否定したい訳ではない。私自身も異性愛者である。しかしながら、異性愛が社会に生きる全員に当てはまるとは限らないのではないかと思うのだ。
そんな私にとって、「西園寺さんは家事をしない」は一筋の光を与えてくれた作品となった。元々は北斗くんが出演するからという理由で視聴を始めたが、気付けばドラマ自体のファンになっていた。最終回後、TBS宛てに感想のハガキを書いたほどだ。異性愛が全てではないと、現代に新しい「答え」を提示してくれたこのドラマに感謝したい。
2024.10.03 こと