「解像度」という言葉
「解像度」という言葉を気に入っている。
言葉の意味はWikipediaによると以下の通りだ。
観測対象がどこまで詳しく測定(描写)されているか、別の言い方をすれば、異なる対象がどこまで分離されているかを意味する。
私は、物事に深く精通していることを「解像度が高い」と言うことがある。「理解度」と大して意味は変わらないが、解像度にしかないニュアンスが好きであえてこの言葉を使っている。少し前に部活の先輩と食事に行った際にこの言葉を聞いて嬉しくなった。
例を挙げると、走る姿をあまり見ない人はどの選手も同じフォームで走っているように見えて区別がつかない。一方、浴びるようにレースを見て研究を重ねた人は、フォームだけ見れば走っているのが誰なのか特定できてしまう。中には走っている姿を少し見るだけで、その選手がどれだけの才能を秘めているかわかってしまう人もいる。
これが走りに対する解像度の例だ。解像度が高くなるほど、同じものを見ても入ってくる情報が多くなり、より細かい区別が可能になる。
例えばアイドルに精通している人は、顔や声だけで簡単に誰かわかるのだろう。自分は解像度が低いので全く同じように見えてしまう。
何かひとつのお題から、色々な切り口で話をどんどん広げられるのも解像度の高さが為せることだと思う。
上の解像度を理解度に置き換えたとしたら、意味としては不十分に感じる。理解度に加えて、細かいニュアンスの違いに半直観的に気づくことができる、という含みがあるものが解像度という言葉だと考えている。
解像度の高まる過程はAIによる機械学習そのものだと思う。
機械学習はできるだけ多くのパターンに触れることから始まる。そして、それらのひとつひとつに対して適切な意味づけ・場合わけをすることで高い解像度での認識が可能になる。
多くのパターンを経験して、それに対して真摯に向き合ってきて得られるものが解像度だ。そうした努力の過程が自然と思い浮かぶことも含めて、この言葉が気に入っている。