べきべきの呪縛
今日、こんな言葉を聞いた。
「現代人は○○する『べき』に縛られている」、と。
考えてみるとそれには枚挙にいとまがない。
社会人とはこうある「べき」、就業中の態度はこうある「べき」、サラリーマンはこうある「べき」。
仕事に対する考え方が少しずつ変わってきているとはいえ、そうなると
会社に頼らず自分のやりたい仕事をやる「べき」、とか、好きなことを仕事にする「べき」とかとか。
仕事以外でも、30代はこうある「べき」、男はこうある「べき」、家族はこうある「べき」。
なんかもうべきべきすぎて書いているだけで、息苦しくなってくる。
しかもこの「べき」の呪縛は、長い間、社会のに蔓延していて、自分の意思でそうなっているのか、ただ空気中に高密度で漂ってぴったりと自分にくっついてしまってそう思わされているのか区別がつきにくい。
かくいうぼく自身もそうで、これは結構根深い。
会社に縛られない生き方を模索する「べき」、仕事以外にも楽しみを見つける「べき」、思い返すだけでもうがっちがちに縛られてしまっている。
習慣になっていると思っている、書くことも、三味線の練習することも、好きでやっているはずなのに、
書かないと勘が鈍るから、毎日可能な限り書く「べき」とか、
少しでも昨日より上手くなるために、毎日楽器を練習する「べき」と、なってしまう。
確かにそれはそれで間違いではないのだけれど「べき」を前提にして長期間やってしまうと結構しんどい。
例えば予定があって書くことや楽器の練習ができないときは「時間がないんだから仕方ない、時間があるときに取り戻せばいいから、今は休む『べき』」みたいになってありとあらゆることに気を使ってしまう。
しかしながら、なんか最近はちょっと力が抜けてきて、「べき」をちょっと手放す感覚がある。
今日なんかは、スーパーでロールケーキが30%オフで売っているのを見つけて、いつもなら、夕食後はおやつを食べない「べき」、と我慢してしまうのだけれど、「たまには間食もいいよね」と悪魔の提案にするっと乗れる感覚だったので、素直にそれに従ってみた。
そうしたら、気分が乗らないから今日は書かなくていいや、気分が乗らないから三味線練習しなくていいや、と一時的かもしれないけれど「べき」の呪縛が弱まった気がする(とかいって実際にはこれを書いているのだけれど)。
もちろん、年がら年中、悪魔のささやきを聞いてしまうのはまずいのだろうけれど、普段気を張っているのだとしたら一日くらい(1/365)、もしかしたら一ヶ月くらい(1/12)くらい気を抜いてもいいのかもしれない。
常に気を張っていたら、気を抜く必要があるときも張りっぱなしになってしまう。
たまには自分の悪魔に耳を傾けてみるとか、こうしていつもは正しくある「べき」に埋もれてしまいがちだけれどそこから感じたことを言葉にしてみるとか。
気を抜く練習、それも大切なのかもしれない。