黙することの意味
現代の世界では、誰もが我先にと語りたがる。単に話す、話したい、ということに限らず、自らをさらけ出すことが当然のようになり、それに長けた人間が有名になったり、話題になったり、あるいは利益を得たりする。そういう変な社会に今はなっている。とくにインターネットが普及しだしてからそのことは顕著になり、SNSとかユーチューブなどの普及に伴い、露出欲や自己顕示欲の高まりは、もはや留まるところを知らない。SNSをやることが、社会的成功や金銭的欲求を満たす必須条件であるかのごとくである。
そういう社会はもちろん異常である。
なにが異常か。自らをさらけ出したり、過剰に語ったり、あるいは実績もなく、体験もなく、知りもしないことを、したり顔で語ることが当たり前のように蔓延し、誰もが知っているふりをするような社会。裏を返せば、そういうことが出来ない人間や、そういうことをやりたくない人間、ネットもSNSもやらない人間が、まるで生きにくい世の中。
わたし自身のことでいえば、元来無口で、子どもの頃から話すことが苦手だった。あがり症でもあったため、もともと話し下手でもあった。
ところが、20代になり、世界へと出て行くようになると、話さないと何事も円滑に進まないということも強く感じ、否応なく話すことが増えていき、時には必要以上に話すことも出てきた。また、仕事で一定の成果をあげてチヤホヤされていた時期には、過剰なほどに語ったり、講演やトークショーなどもかなりやった。とはいえ、話がうまくなったわけではないので、かなり見苦しいことも少なくなかったと思う。今では思い出したくない記憶も少なくない。
さて、テレビなどで訳知り顔に語る人というのは、いちように胡散臭く感じられないだろうか?そう感じるのはわたしぐらいなのだろうか。というのも、そういう専門家とか、先生とかは、それなりに人望があったり、人気があったり、何かあるから出てくるのだろうし、いずれにしても口が上手くて、世渡り上手ということだろう。
いずれにしても、そういう人間たちには、わたしは信は置けない。これは、単に気に入らないとか、妬みとかではなく、感覚的なものだろうか。話しているときの表情だったり、話している内容だったり、その人物が醸し出す空気だったり、さまざまな要素から判断したり、五感で感じるものだったりするが、嫌な気配を放出している人間が少なくないと思うのだ。
そんなことを長年感じ続けていたのだが、最近そういうことについてシンプルで明確な答を与えてくれた本がある。
カリール・ジブラン著「預言者」である。
既に読了した人も多いだろう。そして、その内容に感動したり、衝撃を受けた人も少なくないと思う。
わたしの場合、その内容に非常に驚いたと同時に、わたしの中で眠っていた琴線に触れた、それも大きな衝撃を伴ってだ。
なぜなら、その内容に、わたしは心当たりがあったし、とても親和性の高い内容でもあったから。それはまさしく、キリスト教やイスラームなどでも語られていること。また、人里離れた山中や、静かに人と話すことなく過ごしているときに、自分の思索の中で出会う幾多の思いの中で出会うこともある考えでもあったから。
小さく、短時間で読めてしまう物語である。しかし、その真意を捉えることは、容易いようでいて、極めて難しくもある。手に入れたのが先月なのだが、すでに10回以上読み、部分的にはもっと読んだところもある。そしてそのたびに、新しい意味合いが出てきて、また違う理解も出来、そしてかえってわからなくなる部分もある。
いずれにしても、そこには物事の真理が書かれており(正確に言えば、真理に通じる比喩だったり、物事の捉え方のヒントなどが示されている)、心をフリーにして、さまざまなこの世界の柵から逃れた状態にしたときに、その真意を理解出来るのだ。そこには神が、(神という表現に違和感や拒否感を抱く人もいるだろうが、敢えて書く)人間に示した真理に通ずる考えや、日々の生き方のヒントが記されていて、書かれている表現から、自分でそれを受け止めて考え、実践していくことが大切だと思われる。
話すこと(語ること)について、預言者・アルムスタファは言う。
「あなたは語る。思考の平和に在ることを止めるときに。
そして、もはや心の孤独にとどまり切れぬとき、あなたは唇に生きることになる。音声は気晴らし、気慰み。
多くを語るとき、思考は半ば殺されたも同じ。・・・・」
このような感じで話は続く。
短いセンテンスで、預言者・アルムスタファがさまざまなテーマに答えていく。それらは、わたしたちの生ほぼ全般にわたる内容となっている。
わたしたちが生きる現在の世界は、無数のノイズに充ち満ちている。人の話すことばのみならず、あらゆる種類の雑音が鼓膜を打ち振るわせ、それに打ち消されている沈黙の語りを聞くことは容易ではない。自らの意志をもってしないと、本質的なことは何もわからないのだ。そして、それはとても大切なこと。あらゆる意味で。
この世の中には、真理から目を逸らさせることが満ちている。思索することは根源的に重要なことだが、多くの人はそこから逃げる。さまざまな理由をつけて。曰く、忙しいから。曰く、仕事をしないと。曰く、友人と会うから。曰く、曰く、曰く・・・。それらのルーティンから、少しでも自分を解放することはできないのか。そして、30分でも一時間でもいい。少し静かに考えてみること。これをわたしは誰にも勧めたい。
黙することは、そういうことを実現する一つの重要な手法でもあると思う。
なんでも言葉に出来ると思ったら、それは大間違いだろう。
言語化できないことに、本質的な重要なことがたくさんあるのだと理解して欲しいと思う。
わたしが書いたこの文章は、そもそも読む人も少ないのだが、それでも誰かの目にとまり、少しでも思索し、静かに考えることをやって欲しいと思う。
この「預言者」をすでに読んだ人も、これから読むという人も、誰にとっても、文字通りのバイブルとなること間違いない。
人生の指針となる、あるいは転機となるような書物には、なかなか出逢えないものだが、今年の年明けは、人生の中でも稀に見る良書、素晴らしい知的発見に出逢えた。このことに、心から感謝したい。