地震が起きた瞬間の私的覚書

2024/1/5追記

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この記事は令和6年能登半島地震に居合わせた筆者の、地震の瞬間の私的覚書である。記憶が薄れないうちに記録を残すことを目的としている。主観の記述であり、正確な情報提供を目的とするものではない。なお個人の特定を避けるため具体的な地名には言及しない。

2024/1/1は家族(筆者、妻、小学生息子、小学生娘および筆者の両親)6名で近隣にスキーに出かけ、夕飯の蟹鍋の材料を購入して帰宅した。実家は海と川に近い、古い町並みの一角に位置する。

帰宅後、父、息子、娘は実家の駐車場でボール遊びをしており、筆者は実家のリビングで妻と過ごし、母はリビングに続くキッチンで夕食の準備を始めていた。

1回目の地震の感触としては「揺れたけど、それほどでもない」というよくある地震のひとつといったものであった。母はいったん火を止めたものの料理を再開し、筆者と妻は「このへんも地震が多くて怖いね」などと雑談していた。1回目の地震の後、外で遊んでいた父と息子と娘が戻ってきた。

この時点でリビングのテーブル付近に母を除く5人がおり、母はキッチンで料理をしていた。

2回目の地震の発生直後、息子と娘は学校で訓練しているためか即座にテーブルの下に入り、筆者はそれを追う形でテーブルの下に入った。

揺れがやや長いため筆者は母に「火を止めて!」と言い、母は「もう止めた」との返答をした。妻はその時点でテーブルに入っておらず「おかあさんもこっちに来て」との旨の発言があったと記憶している。父はテーブル横に立って状況を注視していた。

地鳴りのような音があり突如として激しく揺れ、家が軋む音やさまざまやモノが落下する音が響き、尋常ではないことにようやく思い至る。子供は泣き叫び始め、キッチンでの母の悲鳴と妻の悲鳴が重なる。

リビングに置いてあった天井高の食器棚がこちらに向かって倒れてくるのがスローモーションのように見える。テーブル脇に立っていた父が倒れてくる食器棚を受け止めようと動くのを見て、筆者はテーブルの下に早く入るように怒号をあげて無理やり引き摺り込む。直後食器棚が倒れテーブルの下に割れた食器が散乱するも怪我はなかった。

この段階でリビングとキッチンの間に倒れた食器棚が立ちはだかり、母のみキッチンに孤立することになった。筆者は今すぐに外に避難を提案したが、同時に、母との合流をどうすべきか一瞬悩んだ。倒壊や津波のリスクを考えると各人が躊躇せず外に出るべきであったかもしれない。しかし数秒考慮したのちに倒れた食器棚を迂回して室内合流できるルートがあることがわかり、室内で家族全員合流できた。ポケットに入っていたスマホ以外何も持たずに外へ出た。

外に出ると町は相当なダメージを負っていることが一目でわかり、粉塵が舞って視界が悪かった。破損した道路から水が漏れており水道管が損傷しているなと思ったことを記憶している。

すでに夕刻で気温が下がり始めており、上着も何も持たずに外に出たことを後悔したものの、取りに戻る危険は冒せないため、即座に高台にある公園に避難することにした。避難の最短ルートは倒壊した家屋に塞がれており焦りを覚えたが、次善の迂回ルートで避難できた。

近所の人々とお互いの無事を感謝し合い、足早に坂を登った。高台の頂上につくあたりで大津波警報が発令された旨の放送が聞こえた。集まった人々は高台から、無言で海の方を眺めた。それ以外にできることは何もなかった。

以上が地震が起きた瞬間の私的覚書である。

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