見出し画像

あの夏へ

出された麦茶に口を付けて うちのじゃない と なんとなくそう思い 俺が出された宿題に手を付けているとき 従兄弟の兄貴が言った
〈家の裏の川に蛍が飛んでいる〉
まだ空は明るかったが 次第に肌寒くなっていく感覚でもうすぐ夜になるとわかった
俺は叔母さんに怒られることを少し恐れながらも 兄貴に付いていくことにした

兄貴の家の居間の、広くて大きな窓は
夏はそこから じりじりと蝉の鳴く声・焼け付く陽射しが差し込んでいて
だけど俺はそんな夏が嫌いではなかったから カーテンを閉めないでと毎回叔母さんに頼んでいた
窓の外は鬱蒼とした茂みになっていて たまに猫が迷い込んでくる
勝手口の方に行けば この家の人間が食料をくれる事を知っているのだ



相も変わらずつまらない数字を解いては足している
扇風機ひとつを取りあうように 俺と兄貴で机について 今夜の蛍を楽しみにしていると 玄関の扉ががらがらと開く音がした
買い出しに行った母さんと叔母さんが帰ってきたのだ

少し古いつくりの家、きしむ玄関の扉は嫌いだ
夏の終わりに毎年この家から出て行った日を思い出すから

ソーダ味のアイスキャンディーで小学生男子のご機嫌を取り 母達は甲高い声で笑う 笑う 笑う。

まだ小さな兄貴の妹はそんな母達の輪の中に居て ただぼうっと叔母さんの腕の中に抱かれている
一度 兄貴の妹に触れたとき なんだか懐かしい匂いがした

母さんは俺に 〈アンタはミルクで育ったのよ〉と言う
頬はとけてしまいそうなくらい柔らかくて 手なんてオモチャの人形のようだ それなのに一枚一枚、小さな爪が付いている
神様は叔母さんのお腹の中で こんな小さな爪を作っていたんだろうか
兄貴にそう聞いてみると 〈きっと神ってやつはそうとうな職人だぜ〉と笑った

夜の川
その近くに
ひとつ ふたつ みっつ よっつ いつつ

俺は兄貴が 俺よりも少し大きな手の平の中に閉じ込めたホタルを見た

光って しずんで また光ってを繰り返している

なんだか目が離せなくて 俺は兄貴に 虫かごの中に捕まえて家に持って帰りたいと言った きっと兄貴なら笑って許してくれると思った
兄貴は言った
〈こいつらは弱いから、本当は捕まえちゃ駄目なんだ〉
自分で言った言葉に重さを持たせるように 兄貴は両手を広げて茂みに蛍を逃がした

あれからもう八年経って 兄貴も俺も あの少し古い暑い夏にはいない

もうすぐ陽が落ちそうな空を見て あの日の記憶をなぞるよう コンビニでサイダーを買った

ぱちぱちしゅわしゅわと音を立てて沈んでいく透明な液体が

あの日の蛍の光も 一緒に吸い込んでいくようだった


>旧タイトル 『死ぬかと思って 死のうかと思った』>

 

いいなと思ったら応援しよう!