関東大震災の瓦礫処理で生まれた山下公園〜観光都市・よこはま復興ものがたり
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山下公園と氷川丸は横浜人の「憩いの空間」だ。
1923(大正12)年9月1日、関東地方をマグニチュード7・9の巨大地震が襲いました。この地震は相模湾沖の海溝型地震であり、神奈川県、とくに横浜の被害は甚大でした。
明治末期から大正にかけ、横浜は大規模な公共施設の建設が相次いでいました。街は賑わいを見せ、横浜市の人口は40万人を超え飽和状態に達していました。
横浜開港から60年を迎えた1919(大正8)年、横浜市は市政改正局(のちの都市計画局)を新設し、交通網やライフラインの整備を推し進める都市計画事業に着手しました。その矢先に、起きたのが関東大震災でした。
関東大震災における死者・行方不明者は10万5000人を超えました。横浜では3万5000棟を超える家屋が倒壊・焼失し、2万6000人の死者・行方不明者を出しました。神奈川県庁舎は煉瓦壁を残しただけの姿になり、関内地区や横浜公園付近、海沿いの埋立地区などはほぼ壊滅状態となりました。
地震による直接的な被害も甚大でしたが、地震後の火災による焼失も大きいものでした。また、横浜市の周辺郡部(鎌倉郡、久良岐郡)は震源地に近かったため被害が大きく、現在の金沢区や港南区に当たる地区では建物の9割が崩壊しました。
横浜駅には多くの人が溢れました。地震で被害を受けた東海道線は、9月7日に品川~横浜間が開通し、横浜以西にも随時運転が再開されました。避難者は鉄道運賃が無料とされ、9月末までに28万人が各地へ輸送されていきました。
このような壊滅的な被害を受けた横浜の復興はどのようになされたのでしょうか。
関係各省への陳情の結果、横浜市も国家絡みの「帝都復興事業」に位置づけられることになったことが大きなポイントとなりました。
内務省の技師が派遣され、震災復興計画を立案、土地区画整理、街路整備、公園新設など、都市の骨格が形作られました。
山下公園は関東大震災の瓦礫に河川の浚渫作業や山手トンネル工事で生じた土砂が加えられ、造成されたものです。復興途上では、その利用を巡って「公園化論」と「埠頭化論」がぶつかっていましたが、次第に公園化に落ち着き、1927(昭和2)年の造園工事開始から、(完成した部分を)順次市民に開放しました。
また、横浜の復興には、市長・有吉忠一氏の推進力も大きいものがありました。特筆すべきなのは、開港記念横浜会館とホテル・ニューグランドです。
煉瓦の壁だけを残して焼け落ちた開港記念横浜会館は、市長の(復興後の)「大横浜」方針のもと、1927(昭和2)年に再開館し、復興のシンボルとして市民の思いを紡ぎました。
そして、何よりも急務となっていたのが、震災によって離れてしまった外国人たちの招致でした。
そのためにはこの地に、招致のシンボルとなるような外国人向けのホテルの建設が必要でした。市長は山下町に用地を取得し、「横浜市復興会」(横浜の政財界の有力者によるバックアップ団体)とともにホテル建設に着手しました。
「ホテルニューグランド」の名称は一般から公募。重厚で美しいデザイン、東洋一と謳われたホテルが開業し、内外の多くの宿泊客に、横浜の復興を強烈に印象づけることになりました。
横浜は、日本で有数の観光都市となりました。横浜は、歴史の街であり、また進化の街です。
街に突如として「モノ」が出現する。山下公園、ホテルニューグランド、赤レンガ倉庫、ランドマークタワー、そして、最近はロープウエイ。「モノ」は観光資源であり、進化の一形態です。
復興の先に観光を見る。出現させる「モノ」のなかにどんな物語を込めるのか。
いつの時代も被災地は闘っているのです。
山下公園の先にホテルニューグランドが見える。