『プリパラ』に見る『夢界八層試練』と『ユメ』論 Ⅱ
時よ、何時(なんじ)も美しい!
夢という題材に関して真摯に議論が交わされているのは、『プリパラ』第四期『アイドルタイムプリパラ』も同様である。本作ではシーズン3まで主人公を務めた真中らぁらに加え、新たに『夢川ゆい』がもう一人の視聴者の窓口として登場する。
この夢川ゆいという少女、前述した通り黙っていれば普通の美少女であるのに、ふとしたきっかけでスイッチが入り、瞳に宇宙を宿して妄想に耽りそれを垂れ流すという異常者である。『み~んなトモダチ! み~んなアイドル!』を標榜し、持ち前の包容力によってそふぃの性質(コストパフォーマンスが劣悪。優れた歌唱力を誇るが、一定期間梅干を食わないと萎れる)を受け入れ、女神ジュリィを相手に一人のアイドルとして接したらぁらが集団的和睦を体現するキャラクターなら、ゆいはさしずめ個の尊重、求道への注視を表現した少女であると言えよう。とはいえ友達を蔑ろにする性格というわけではなく、終盤では『み~んなが幸せなプリパラ』の実現を目指し、これを完遂させている。
ゆいの暮らす『パパラ宿』には、少女が集うプリパラは存在しなかった。男子プリパラ『ダンプリ』だけが盛況な中、ゆいはひとりプリチケが届くのを待ち続け、やがて念願の女子プリパラがオープンする。宣伝大使としてやってきたのは、前シーズンで神アイドルの座を勝ち取った真中らぁら。しかし、パパラ宿の少女たちはプリパラにまったく関心を示さない。集客が見込めなければ閉鎖の憂き目に遭ううえ、らぁらに至っては神アイドルの称号を剥奪されるという背水の陣から、第四期はスタートする。
夢川ゆいはシリーズ屈指の狂人であり、誰より強固にして膨大な夢を有する、不撓不屈の少女である。常に炊飯器(名をタッキーという。プリパラ内では自我を持つ)を肩から提げ、白米をおかずに白米を食い、幼少期には闇の組織ゴルゴンゾーラに改造手術されたことで足首には鋼鉄が埋め込まれていると思い込むやべーやつだ。彼女の溢れんばかりの夢に惹かれ、夢を失っていたパパラ宿の少女たちは徐々にプリパラへと足を運ぶようになっていく。
「困った事が起きてもね、夢を信じていれば、
ビックリするくらいのパワーがわいてくるの! それが夢パワー!」
アイドルタイムイズマネー!
そんなやべーやつの対局として登場したのが、転校生の華園しゅうかである。彼女もまた『夢』という概念に関連したキーパーソンの一人で、きらびやかな自分に絶対のプライドを持つセレブリティアイドルだ。而してその実態は、弛まぬ努力のもと無駄遣いを憎む守銭奴である。否、守銭奴ともまた異なる奇怪な性格付けがなされている。
常日頃から妄言と毒電波を撒き散らすゆいに対し、しゅうかはいつ叶うとも知れない夢を持つことを厭う、徹底したリアリストである。夢など見る必要はない、実現しようと願ったこととは、すなわち実現可能な目標であり、彼女にとっては行動こそが何より意義のあるものなのだ。金とは手段を用いるためのひとつでしかなく、掲げた目標を達成するためには、全財産すら容易く擲つ覚悟すら持ち合わせている。誰よりも時間の質に拘泥しながら、勝利と制覇の実感を求め続ける渇望の持ち主なのである。
自他ともに認める孤高の天才。しかしそんなしゅうかの実力を以てしても、ノリと勢いがすべてのプリパラバトルルールにおいては、唐突な敗北はままあることなのであった。ゆいに勝つ、それを確かなユメとして抱きながら、しゅうかは夜の精霊『ガァララ』と邂逅する。
『逆十字』ガァララ・ス・リープ
基本的にプリパラへ集うアイドルの面々は、十分すぎるほどの夢への熱量を持ち合わせる女性ばかりである。ゆいのチームメンバーとして登場する『虹色にの』『幸多みちる』もその一翼を担うに相応しいアイドルであるが、それではなぜパパラ宿のプリパラは長らく機能していなかったのか。 それは夜の精霊ガァララと、彼女に付き従うマスコット『パック』の行為によるものだった。
かつて存在した古代プリパラには、それぞれ昼夜を司る二柱の精霊が君臨していた。昼の精霊ファララ、夜の精霊ガァララである。昼の盛況なプリパラを統べるファララに対し、ガァララは常に孤独の中で夜の静寂を見守ることを強いられ続けてきた。業を煮やしたガァララは、夢を食べることができるパックの意向に従い、プリパラに集う少女たちの抱く夢を根こそぎ奪い尽くしてしまう。少女たちの夢があれば、自分を縛るルールを踏み倒すことができる。ファララの時間をかすめ取ることで、ガァララは昼夜の世界を堪能し続けた。
「どうして、私は夜しか起きていられないの!?
どうして、夜は誰もいないの!?」
しゅうかはガァララ達の行為を知るも、決して咎めることはしなかった。奪われるような軟弱な夢をいつまでも抱えている方に非があるのだと。その一方で、自身の願望の成就に活動を惜しまないガァララの振舞を称賛するしゅうか。交流を続ける中で、いつしか二人は一時のビジネスパートナー以上の関係へと発展していく。やがて親愛の証として、互いにプレゼントを贈り合う二人。しゅうかはガァララのライブデビューに際し、手製のドレスコーデを。ガァララは黒いマイクを差し出した。
ガァララのマイクを手にライブへ赴くしゅうか。ライブを終えると、パックからマイクの『心を揺るがした人間の夢を奪う』真の効用を知らされる。しゅうかほどの実力を持つアイドルであれば、多くの観客の心を動かすことができる。だからガァララ達はしゅうかにこれを渡したのだ。欺かれたことに対し激昂するしゅうかに、ただ困惑するガァララ。しゅうかは半ばガァララにライブを堪能してほしいがために舞台に立ち、ガァララはしゅうかと共に時間を過ごしたいがためにマイクを渡した。夢を奪わねば、しゅうかとの時間を楽しめない。擦れ違いとジレンマで演出されたこの悲劇によって、二人の関係は一時的に破局に陥ってしまう。
生きるということに、嘘も真もあるものか!
柊聖十郎という男がいる。前述した柊四四八の父親にして、夢界七勢力が一角『逆十字』を体現する男である。生来より全身を死病に冒されながらも、民俗学の分野で名を馳せ、甘粕正彦と共に邯鄲法と夢界を見出し、盧生として生きながらえることを願い続けた。健常な肉体を求め、自身を蔑む者を排除し、自身の延命のためにあらゆる冒涜的所業に手を染めた。
夢と現実は対義ではない、一元的なもの。生の謳歌という点にしても同じだろう。柊聖十郎という人物のおかれた立場においては、これまでの行為全てが肯定され、また祝福されるべきであろうことは言うまでもない。
ヴィトゲンシュタインは、死は人生の出来事ではないとした。それは形而上の問題であり、人間自身が認識できる世界内世界の埒外の現象だからだ。語り得ぬものの確たる一つ、それこそが死なのである。死とはつまり生の限界であり、意義をうかがい知れない永遠性には意味を見出すことはできない。生とは、幸福なる人生とは、他者の思想や既存の言語では置換不可能な概念である。ガァララ、そしてパックは、幸福な生の謳歌に真摯であり続けた。同じく聖十郎もまたそうあろうとしたし、彼は息子の四四八の破段によって祝福を授かっている。
『万仙陣』では、逆十字の思想を継ぐ『緋衣南天』が登場する。柊四四八からの盧生資格の簒奪を目的としていた聖十郎の思想と異なり、南天は思想と共に受け継いだ病んだ肉体を癒すことができるのであれば、盧生資格すら必要ないと断ずる少女である。華園しゅうかと同じく、作品きってのリアリストと称される彼女の能力『雲笈七籤・墜落の逆さ磔』は、相手が自分にとって都合のよい願望を抱いた瞬間に作動する急段で、術に嵌ると同時に無限の落とし穴へと突き落とされてしまう。
だが、リアリストはえてしてユメの輝きに敗北するものである。南天は自らが手駒としていた恋人『世良信明』の死から目を反らし、しゅうかもまたゆいの膨大なユメの総量の前に『ファララとガァララが共にプリパラを謳歌する世界』を夢見てしまう。南天は、しゅうかは、そしてパックは、他者が並び立つことを拒否し続けたことでリアリストと称され続けた。現実主義者は、時に度の越えた夢想家のもたらす希望によって破られてしまうのだ。
パックはずっと、あのままが良かったパック……
パックはガァララとしゅうかの関係が修復されると、嫉妬から彼女らと疎遠になっていく。周囲の仲間と共に夜の孤独に抗おうとするガァララに対し、パックはガァララから見捨てられるのではないかという恐怖に怯えだす。独断でガァララのために少女たちの夢を吸い上げ続け、ついにはプリパラの時計塔と一体化。自分がガァララと共に歩むことのない未来の到来を拒み、時計の進行とともに自身を凍結させてしまう。最後までその暴挙を諫めようとした、真中らぁらまでもを巻き込んで。
この一件こそが、夢川ゆいに突き付けられた『八層試練』なのである。パラ宿の神アイドルであるらぁらは、普遍的な相互理解と包容力をもって、シーズン3までの騒動をとりなしてきた英雄だ。パックの孤独にいち早く感づき、制止を求めたのもらぁらである。パックはそんならぁらの歩み寄りも無視し、一万年の間ため込まれた無数の少女たちの夢の残滓とともに沈黙してしまう。ここでゆいに求められたのは、自慢の夢の総量ではない。パックを氷解させるための、夢のディティールだったのだ。
「み~んなが幸せなプリパラ! 誰1人寂しかったり、
悲しかったりしない、ユメハッピーでユメスマイルなプリパラ!」
だが、そのプリパラの中にパックはいなかった。パックの求めたのは、『みんなのいる幸せな世界』ではなかったからだ。一万年の孤独を共に過ごしたガァララとのふたりぼっちこそが、自分たちにとっての最善だと、パックは考えた。だが、今のガァララの周りにはファララが、ガァルルが、しゅうかがいる。ふたりぼっちの時間は終わりを告げてしまったのか。そんなことが、あっていいはずがない。個として誰より強いユメの持ち主であるゆいが眷属を募り、そしてパックの持つ個としてのユメへのフォーカスを強いられるかたちとなったのである。
ゆいがどのようにしてらぁらを、そしてパックを救い出すかは、是非とも本編50話を視聴することで確認していただきたい。全キャラクターにフォーカスされる4年間の集大成、盛り上がること請け合いである。
なんと今なら(2020年5月現在)Amazonプライムビデオにて全シーズン配信中だ! 倍速再生で差をつけろ! こんだけ頭おかしい女がいたら一人くらいは好きになるだろ!!
人間賛歌を謳わせてくれ、喉が枯れ果てるほどに
改めて、諸作品に通底する『ユメ』論を考察したいと思う。
『戦神館』における夢界の総代・盧生は、すなわち三者三葉の人間讃歌を誇示する者として描写されている。人間讃歌とは、人間の持つ愛、勇気、慈しむべき広汎的な美徳を尊ぶことそのものである。第一盧生・甘粕正彦は、これを人の内なる輝きと称し、高く評価している。四四八と対立することになったのはこの輝きが自発的に人々から発されるか否か、という点に尽きる。
では、『ユメ』とは何か。『万仙陣』において、これも明確に示唆されている。先人の輝かしき偉業や美徳に向けられる、無意識からなる憧憬。そこから産まれるささやかな願望が『ユメ』であり、現実に生きるわれわれに与えられる加護こそが『ユメ』の本質なのだ。
プリパラでの『ユメ』もまた、概ね静乃の到達した真理と同意義であることがわかる。ゆいのチームメイトのみちるに関してもそうだ。右肩に宿る他人格のミーチルこそが、パックの襲撃を免れた『ユメ』そのものだということが示されている。ミーチルとは、テレビに映るアイドルへの憧憬が産んだみちるの『ユメ』。知らず知らずのうちにミーチルを覆い隠してしまったみちるは、小学生の黒須あろまの使い走りに落ちぶれるほど、引っ込み思案な少女となっていた。パックに夢を奪われたにのも同様に、強固な『ユメ』で武装したシオンを相手に勝負を挑むものの、連戦連敗が続いていた。
盧生とは、志を――――『ユメ』を同じくする者を眷属とし、連帯できるものだ。そうした前提を踏まえれば、やはりらぁらとゆいは夢界の覇者、盧生に最も近しい者だと言えよう。
プリパラにおいても、『ユメ』の在り方はシーズン2の紫京院ひびきによって論じられてきた。彼女の目的は、万人に開かれたプリパラを、一部の実力者のみがライブを許される空間に改革するというもの。その真意は、不完全性の塊である人間の肉体を捨て、信奉するファルルと同じボーカルドールのカラダを手に入れることにあった。
「なぜかって? 所詮この世は嘘とまやかし。どこに問題がある?」
彼女がファルルに向ける憧憬は、万仙陣に嵌った静乃が求めた、都合の良い現実と同一である。だが静乃は、らぁら達は、この『ユメ』に偽装した自死を否定する。それはお前だけの阿片窟だ。生きる時代が、産まれた種族が違っても、ファルルの傍にいることはできるはずなのだと。
「継いで、報いる気概を誇りとすれば、柊四四八はいつも私(おまえ)の
傍にいる! 詭弁ではない! 気休めでも、お為ごかしでも……!」
可憐でいましょう 気高くいましょう
夢川ゆいの語る『ユメ』は、彼女の渇望の源泉である。それと同時に、『アイドルタイムプリパラ』内においては、ライブをするのに必要な『アイドルタイムシステム』のエネルギー源としても使用される。ガァララが睡眠時間を踏み倒して活動する際にも、パックが回収した『ユメ』が用いられていた。本作での『ユメ』と時間は密接に関係するものとして描かれている。
人類は、発達した脳のもたらす想像力の恩恵によって、現在の地上の版図を得るに至った。文明の存続と発展の為に培われた想像力は、ここでは『ユメ』と言い換えることもできるだろう。『ユメ』とは、万物に等しく流れる時間を、いかに美しく彩るかの指標である。石神静乃は百年前の特科生たちの武勇伝に想いを馳せ、これまで生きた時間を彼らへの憧憬で飾っていた。これからの人生も、きっと彼らから受け継いだ美徳を胸に奉じて歩んでいくに違いない。
華園しゅうかは、誰より時間の有限性を理解していた。だからこそ『ユメ』という不確かなものに信を置かず、五感で体験しうる『実感』のみを評価した。だが、それは畢竟誰よりも自身の『ユメ』に確実な実現性を期待していただけにすぎない。『ユメ』を持たない知的生命などいないのである。
“Tout ce qui est dans la limite du possible doit être et sera accompli.”
(《Maison à vapeur》 Jules Verne, 1828-1905)
実現可能な範囲にある物事はすべて実現されるべきだし、それはきっと達成される。フランスの作家ジュール・ヴェルヌの作品『蒸気で動く家』には、そう記されている。仮に実現不可能な展望があったとして、しかし叶えるのは自分ではないかもしれない。それでも夢を抱き、その庇護に与れるのが人間の特権であり、また人間であることの証明なのである。
ヒトであるからこそ未来を想像し、夢を見る。現在を悔いなく生きた先に訪れる未来に待つのは、夢見た過去の自分からの祝福であり加護である。この過去から未来に贈られる寿ぎを何より尊いものとしたのが柊四四八であり、夢川ゆいであり、石神静乃であり、真中らぁらなのだ。
『ユメ』見る隣人を認め、貴び尊重する。そして『ユメ』を高らかに謳いあげること、世界中に向かって届くように、思いっきり歌うこと。すべての人間には、それが許されている。
我も人、彼も人。故に平等、基本である。
(了)
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