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vol.19 スーパーマリオブラザーズ
大人になってから公園のブランコを思いきり立ち漕ぎしたことがあるだろうか。大の大人が公園のブランコで思いきり立ち漕ぎをするというのは通常なかなか見られない景色ではあるが、例えば子供が使わない夜だとか、大人とはいえ大学生くらいの時に少し興が乗ったとか、そういう場面だ。
大人になってした立ち漕ぎは、メチャクチャ怖くなかっただろうか。筆者は怖かった。子供の頃はブランコの限界に挑むレベルで180度以上を目指して思いきり漕ぎまくっていたというのに、今はそれを想像するだけで脚がすくむ。
子供の頃よりも視点が高くなり、現実的な意味での想像力が高くなり、結果、筆者は大人なりの怯みを獲得した。自分を守るための行動の制限、しかしこれは獲得と言えるだろうか。喪失ではないだろうか。大人になったことで、行動にブレーキがかかっていないか。
スーパーマリオブラザーズは筆者が人生で最初に触れ、衝撃を覚えたゲームである。親類の家にあったこの素晴らしいゲームに一瞬で引き込まれ、以降、実際に家にファミコンが来るまで長く長くあこがれ続けた。
その憧れたるや、自由帳に延々と想像上のマリオブラザーズを描きまくり、爆速で自由帳を消費してしまうので、親が紙代がかさむことを嘆くほどであった。それほどに本作は筆者にとっての衝撃だったのだ。
家にファミコンが来てからは、それはもう貪るように遊んだ。レンタルビデオショップで借りた攻略ビデオを元に無限1UPを実践し、ワープゾーンを駆使してステージを駆け抜けた。幼少期でも様々な攻略情報をもとにエンディングにたどり着いた数少ないソフトだ。
このゲームを夢中で遊ぶ筆者に、母が話していたことがある。「よくその1マスだけのブロックに上手に乗れるよね」ということだ。空中に配置されたブロック=足場に正確に着地することは、本作、いやすべてのアクションゲーム、2Dプラットフォーマーの重要な技術である。
スーパーマリオブラザーズはファミコン時代で言えばジャンプに比較的自由が効くソフトだ。プレーヤーの直感的な操作がそのままジャンプの結果になる。プレイを続けていれば狙った位置に跳び、着地できるようになるのだ。
だから、幼少期の筆者には母の言うことの意味が解らなかった。飛び、そして狙った場所に降りることが特殊な技術だとは思っていなかったのだ。まるでブランコを強く漕ぐだけのことのように、誰でもできると思っていたのだ。
月日は流れ、筆者は濃淡はあれどコントローラーを握り、ゲームを遊び続けた。今も人以上にゲームを遊ぶし、ゲームに対する苦手感は持っていない。しかし、スーパーマリオブラザーズというゲームは伝説的なゲームではあるが、日々遊ぶようなゲームではなくなって久しい。
それでも、あらゆる任天堂のゲーム機で遊ぶことが容易なスーパーマリオブラザーズであるから、時に懐かしくなってスーパーマリオブラザーズを遊んでみることはある。同じようにニンテンドーswitchのオンライン会員特典などで戯れに起動した方は多いのではないだろうか。
そしてプレイ開始である。いつものようにマリオを走らせ、ステージ中盤。スターなどが隠れている単発のブロックの地帯だ。ここにダッシュで進入し、当然のようにジャンプする――
刹那、脳内によぎる母の声。「よくその1マスだけのブロックに上手に乗るよね」あの頃と違うのは、自分自身が「確実に空中の1マスブロックに降りられる」という無根拠な自信を喪っていることだ。
そう、大人になってブランコを思いきり漕ぐことができなくなったように、時間を置いた筆者には生じている、筆者がもしかするとこのマリオを、狙ったブロックには着地されられないかもしれないという恐れが。
母の言葉は、ある種の老いのように捉えていた。大人になると同じ事ができないというような言葉ももしかすると聞いていたかもしれない。確かに筆者はあの時よりずっと大人になった、しかしゲームを苦手というわけではないのだ。
嫌だ嫌だ嫌だ、外したくない、マリオはそれこそ手足のような、相棒のような存在なのだ、たとえ普段から遊ぶゲームではなくなったにしても、マリオは常に心の友達だったし、あの時当然だったジャンプと着地ができなくなるなんて、そんなことは知りたくない、まだ老いたと認めたくない――
子供と大人とでは危機管理能力が違う。それは自身を守るために必要なことではあるが、同時に自身をどこかで縛ってしまう枷になってしまうのかもしれない。
今も遊ぶことが容易な本作である。環境のある方はぜひこの機会に起動されてみてはいかがだろうか。