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vol.25 moon

 1997年発売のmoonは青春の塊みたいなゲームだと感じている。筆者自身にとってもそうだし、おそらく開発者にとってもそうだったと言えるのではないか。

 2019年、moonが現行機に移植されるというとき、ちょっとしたお祭りだった。moonは伝説的なゲームだったのでプレイ経験のある人々は一様に騒いだし、移植を難しくしていると思われた要素がそのまま収録されていることに驚いた。

 移植を期に雑誌で組まれた特集では、スタッフが当時の制作の思い出を語っていた。初代プレイステーション時代の、玉石混交だが挑戦的なタイトルが溢れていた頃の現場の熱がこもっていた。そして、それはもう二度と手に入らないものだということも紙面から実感できた。

 しかし、moonの移植が現代のゲームシーンにインパクトを与えたかというと、そうは感じなかった。moonは「当時少数の熱狂的なファンがいたバンド」のようなゲームで、今再販しても当時のファン以外に嬉しい人はそういないと感じている。

 moonは発売当時の情報環境で、かつ発売当時の年齢で遊ぶことに意味があるのだ。その情報環境を再度構築することは不可能で、現代において「新世紀エヴァンゲリオン」を当時の雰囲気で楽しむのが不可能なのとにている。

 moonの移植版は一つの記念みたいなものだと感じているし、それでいいのだと思う。筆者は移植版は買わなかったが、同時に発売されたCDを買った。そもそもCDが出たということはすごいことなのだが、この「すごい」もまた、今からさかのぼって実感するのは不可能だ。

 と、いった「一世を風靡し解散したバンドがファンの悲願だった再結成をしてみました」みたいなゲームの本作であるが、当時、筆者と本作の出会いは「犬マユゲで行こう」紙面で紹介されていたことだった。

 当時はゲームの華と言えばRPGか格闘ゲームである。そんな中で「勇者はやばいやつ」から始まり、RPGに対する強いアンチテーゼを示した本作の紹介は筆者にとっても興味深かった。珍しく紹介記事から「遊んでみたい」と思ったのだ。

 運がよかったのは、たまたま当時の友人に本作の所有者が居たことである。今考えればどうして友人はあんな変なソフトを持っていたんだろうか。想像が難しいが、クラスに一人は筋肉少女帯のファンがいるのと同じような理屈かもしれない。結果としていいゲームを遊べたんだから詮索はなしにしよう。

 友人に借りて本作を遊んだのだが、結果的に遊びつくすほどはまり込んだ。まず本作は探索ゲームとしての作りがとてもうまい。前半はサクサク探索範囲が広がっていき、システムが身に着いた頃には感じるままに探索範囲を拡げたり、深めたりすればそれだけのリターンが得られる。

 探索が面白いというのもまた当時の特権である。現代の作品であればもっとナビゲーションが丁寧になってしまうか、攻略wikiが一瞬で出来上がってしまい、自分自身のプライドとかけられる時間を天秤にかけてしまう作りのゲームである。欲しくても攻略が手に入らない、自分で探すしかないことがなにより大事なのだ。

 本作を遊びつくすほどにはまり込んだのには理由がある。たどり着けそうなのに、エンディングにたどり着けなかったからだ。本作でエンディングにたどり着くためには、ゲーム中の最後のある一つの選択肢を正しく選ぶ必要がある。

 しかし筆者は、自分自身がエンディングにたどり着けないのは、ゲーム中の探索度が低いからだと誤認した。結果、筆者は探索度を上げてはラストに挑戦、選択肢に失敗、上げては選択肢に失敗したのである。

 本作をプレイされた人物なら、筆者の状況がお分かりいただけるだろう。そう、本作のエンディング到達の条件は、必ず訪れる、物語上のゲームオーバー後に表示される「コンティニューを選択しない」ことであるが、筆者はことごとくその選択をしなかったのである。

 ついに筆者がエンディングにたどり着いたのは、ゲーム中のすべての探索要素をコンプリートし最高ランク「愛のビッグバン」に到達してからであった。これは本作としては由々しき事態なのである。

 そもそもmoonというのはアンチRPGであり「そんなに遊びこむ前にコンティニューをしないでゲームを終える」という、ゲームの世界から現実に戻ることを選択することに重要な意味があるのである。

 何度も何度もコンティニューし、ゲーム中でできることをやりきってしまうのは「もうゲームの世界でやることがないから戻る」状態であり、限りなくゲーム中で描かれる「勇者」に近いメンタル性である。筆者はやばい奴だ。

 しかし、結果的にとはいえ、全ての要素をやりこむまで遊んだのはなかなか稀有な深いゲーム体験であった。だからこそ本作のエンディングムービーである現実世界にゲームのキャラクターが居る映像は心に深く残るものがあったし、今でも残っている。

 当時、示唆に富んだエンディングムービーは、現代では全く意味が変わった。ゲームの世界と現実の世界は非常に強く結びつき、両方が両方に浸食している。moonのエンディングはなんら特別なものではなくなった。

 当時は非現実的だった映像が、現代では現実的な映像になっている。これもまた時代の変遷によって二度と取り戻せなくなった要素の一つである。やはり、本作は青春のようなものなのだ。

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