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ニュージーランド・バスキング・デイズ vol. 8

ピクトン芸人の一日

 
「タクシーは普通電話して呼ぶんだよ。」

肌の浅黒い南アジア系のタクシー運転手は、ウェリントンの中心街を抜ける頃に、少し雨で濡れている助手席の私に向かってそう言った。

ホテルを出た時は小雨程度であったが、何とかタクシーをピックアップしようとウェリントン駅まで徒歩で向かっている最中、どんどんと雨脚が強くなっていった。

流れているタクシーの数は少なく、見つけたとしても既に客を乗せている。これはもう無理かと横断歩道のところで諦めかけていた時、ちょうどこちらの方向に向かってくるタクシーを見つけ、ダメ元で手を振ってみると幸運なことに客を乗せていなかった。

ここニュージーランドの多くの小売店や飲食店では、メルボルンと同じく店先に屋根が歩道を覆うほどに出っ張っていて、そのおかげでずぶ濡れは免れた私だが、それでもポーチはびっしょり濡れていたし、ズボンも少しばかり湿っていた。

しかし、助手席に座った頃には何とか第一関門突破かと安堵感に浸ることができた。その際にウェリントンのタクシー事情を色々聞いたおりに上記の情報を聞いたのだが、「だけど呼ばれたタクシーの運転手が向かってる途中で別の客をピックアップしちゃって予約してくれたお客さんを乗せれないなんてこともあるんだけどね」なんという不条理な補足情報がついて来た。

うーん、今回は結果的にラッキーだったのか。

ウェリントンから南島のピクトンに渡るフェリーには二種類ある。インターアイランダー社とブルーブリッジ社の二社で、それぞれ発着場所が異なる。

私が乗ろうとしているインターアイランダーはフェリー乗り場がウェリントンの中心街から1kmほど離れている。しかし、ピクトンでは中心街に近い埠頭に発着している。

ブルーブリッジ社はこの逆で、ウェリントンでは中心街に近く、ピクトンではやはり中心街から少し遠いところで発着する。

両社は片方に不利益が生じないように上手く住み分けているわけだ。ブルーブリッジ社の方が値段が少し安いのだが、夕方にはピクトンのマーケットにて演奏を控えていて、何とかその時間に間に合う朝一の便を探したが、ブルーブリッジの方は既に売り切れていてインターアイランダーを選択せざるを得なかった。

三時間ほどの船旅とは言え、インターアイランダー社は荷物の持ち込みを厳しく制限していて、持ち込めるのはリュックサイズのバッグ一個だけで、あとは上限二個まで大きな荷物を預ける必要がある。

大荷物の私はバスキングセットとジャンベの入ったカバン、わずかばかりの着物とバッテリーを入れた小型スーツケース、ギターとキャリーの計四個を預ける必要があったが、ギターとキャリーの二つは追加分として預かってもらえた。勿論追加料金を払ってだが。

バッテリーもサイズによっては危険物扱いになるが、小型であれば大丈夫だそうだ。

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乗り込んだフェリーはとても規模が大きく、あまりあるほどの座席数に、中にはいくつかのカフェやレストランがある。私はとりあえず海が見える席にしようと上への階段を探しては上がっていった。

たどり着いたフェリー後方が見渡せるテラス席にはまだ誰もいなかった。その中で一番突き出た席にここで良いかと腰を下ろして、パソコンを開いた。

ウェリントン滞在に関して文章を書こうとするが、ネットで調べたタイ料理店のご飯がおいしかったこと以外、良い思い入れが全くなく、その一方で、早起きに伴う緊張感と、そして何より宿泊していたドミトリー部屋で私の上のベッドに入った中国人のおっちゃんのいびきがうるさ過ぎて良く眠れなかったことで、疲労が積み重なった状態であったため、前回のような文章になってしまった。

ドミトリー部屋というのは二段ベッドが一つの部屋にいくつか並んでいて、赤の他人と同じ空間で就寝するという、他人の生活音が気になる神経質な人には向かない宿泊スタイルの部屋なのだが、個室より遥かに安いので他人の存在があまり気にならない人はドミトリーを選択するであろう。

また、利用する人はやはり経済的な問題で若者が圧倒的に多い。

しかし、時には中年男性が紛れ込んでくることがあり、そうなると就寝後が大抵やかましくなってしまう。いびきの問題である。

私の少なくないドミトリー経験では、男性であれ、女性であれ、いびきの大きさに性別はほとんど関係なかったのだが、特に肥満体型の中年男性は高い確率でいびきがうるさい場合が多かった。

私がウェリントン最終日にドミトリー部屋のベッドでこれから寝ようとしているときに、部屋に入って来た中国系のおっちゃんは頭が禿げ上がっていて、でっぷりとした体型であった。

同じアジア人ということもあってにこやかに挨拶してくるおっちゃん。翌日の早起きに備えて少しばかり緊張していた私は軽い挨拶にとどめておいた。

おっちゃんは颯爽と私の上のベッドに上がっていったがものの五分ほどでいびきをかいていた。これが長きに渡る戦いの合図になっていたとはこの時には知る由もなかったが。

やがて別のルームメイトが消灯し、しばらく眠気を待っていた私だが、11時を回った頃からおっちゃんのいびきが猛威を振るい始めた。

いびきには、がーっという音が単純に繰り返されるイメージが強いが、がー音は全体の構成からいえば決してメインではない音色だ。おっちゃんのいびきの音色は実に多彩であった。

その体型からは想像出来ないほどの、か細く震えるような声で語尾に毎回疑問符が付くような、まるで雨が降りしきる中拾ってくれる人を待ち続けて鳴いている子犬のような声。時には真夜中の静かな街に高らかに歌うようなアルトサックス。また、サバンナで猛獣が自分の威厳をそれとなく示そうとしたかのような軽いうなり声を出したかと思えば、細い声のスタッカートで語尾が尻上がりの、純真無垢な少年が何かを尋ねているような音もあった。

しかし、残念なことに、これらの音は毎回何度か繰り返されるのだが、十回も続かないうちに唐突にふがっという、おそらくおっちゃんが苦しくなって大きく呼吸する音によって終わってしまう。

一番苦しめられたのは、ロングトーンで、前半は粗い音だったのに、途中で音色が澄み切った芯のある音に切り替わり、音が切れる手前でピッチが半音近く上がるという高難易度のいびきだった。

音楽家にとっては、ピッチの変化に無意識に反応してしまう職業癖が、強制的に自動的に発動してしまうというもはや地獄の苦しみだった。

おっちゃんの七色のいびきによるソロコンサートをアリーナ席で聞いていた私が眠れるようになったのは午前2時頃だった。何とか6時頃にのそのそと起床し、7時になんとか出発準備が整った私はまだ絶賛公演中のおっちゃんが眠るベッドを軽く蹴って部屋を後にした。

そんな訳だったからフェリーに乗ってからは解放感に増して、安堵感が増す一方だった。一通り文章を書き終わった頃に、どうやら南島に近付いたようで、周りの観光客が窓外の写真を撮り始めた。

確かに、少し赤みが混じる緑色の急傾斜な丘の海岸線が延々と続いており、南島の広大な自然を目にしているんだと言う実感が湧いて来た。天気は曇り一つない快晴だった。

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やがて、フェリーは小さな湾内に入っていき、その先には小舟がいくつか浮いている小さな港と急峻な山々の麓に小さな家が並ぶ街が見えた。

降り立ったピクトンの港で、国際空港と同じようにベルトコンベアで流れてくる荷物を受け取り、宿を目指して歩き始めた。少し歩くと、左手に湾内を見渡せる小さな埠頭があり、そこから湾全体を眺めてみる。

なんともはや、それほど広くはない湾の中に小舟が何艘か浮いていて、こじんまりとしてはいるが、大都会の波止場のような雑多な感じがまるでない。

日本の小さな漁村を思い起させる風景だ。

南下して歩いていくと道路沿いにはモーテルやバックパッカーが並んでいるばかりで、その向こうには緑色に染まった急傾斜の山々、その中腹に平屋風の建物が並んでいる。

自分の宿の所在を記した、皆さんご存知の「地球の歩き方」の地図を見ながら、四車線にしても幅が十分過ぎるほど広い道路に沿って歩いていく。

トゥームストーンバックパッカー(Tombstone: 墓石)という不吉な名前の宿は街の西側にある山の麓で少し坂を上ったところにあった。

ひらがなの「つ」の字を書き順とは逆になぞるように折れ曲がった急傾斜の坂を上がっていくと、右手に名前の由来ともなっている墓地があった。

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しかし、おどろおどろしい日本の墓地とは異なり、生い茂った緑の芝生や大きく枝を張った樹幹の太い木々の中に並んでいる墓石郡には少しも恐怖心をかき立てるような雰囲気はなく、墓石の上では誰かが手向けたと思しき風車がからからと回っていて、どこか穏やかさと安らぎに包まれていた。

受付のフレンドリーなお婆さんに案内されたその宿は、とても観光資源があるように見えない小さな港町で、ただただのんびりと長く滞在することを意図して設計したかのようなたたずまいで、食堂は元より並んだソファーでくつろぐための部屋や卓球をたしなむ部屋、朝には庭で木洩れ陽を感じながら食事を楽しめる庭などが備わっていた。

これで朝ご飯は付いてくるし、少し歩けばスーパーだってある。隠遁にはもってこいだ。

残念ながら今回は一泊の滞在で、翌早朝にはまたバスによる長距離移動なので惰眠をむさぼることすらも叶わない。

悔やんでも仕方ないが、マーケットが開催されるまで少し時間があったので、スーパーに買い物に行った後、一時間ほど仮眠をとった。

しかし、スーパーでの買い物中に少し気になったのだが、店員や客がみんなヨーロッパ系、と言うか白人なのである。

そりゃイギリス系の国に来てるんだから当然、と思うかもしれないが、北島ではどこの都市でも移民系の人を見かけたものだ。南島では少ないんであろうか。

だとすれば、この後出演するマーケットではアジア人である自分は浮いてしまうかもなどという不安が少し頭をよぎった。

しかし悩んでも仕方ないし、わざわざスポットを設けてくれたみたいなので少なくとも歓迎してくれてはいるはずと気を取り直した。

時間になるとバスキング機材をまとめ宿を後にした。歩いて二十分ほどのところにマーケット会場はあった。ピクトン・パワーハウスと呼ばれるこじんまりとした建物の敷地が会場で、受付のお婆さんが私の荷物を見るなり「あら、あなた演奏しに来た人ね。好きなところで演奏してちょうだい」と言った。

さらに奥に入っていくとこれまたこじんまりとした敷地に十には満たない数のテントが。

これはまたもやってしまったか。まぁ、リハビリにはちょうど良いかもしれない規模かと思っていると一人の男性が声をかけて来て、名前をキアリーと名乗った。私のメールに返信してくれた人だ。

「ここでやると良いよ」とキアリーは建物の入り口の側にある狭いスペースを指定してくれた。そこでバスキング機材を広げ、セットアップして、軽いサウンドチェックとウォームアップの後、演奏を開始する。

少しばかり演奏しているとキアリーが金貨を入れてくれ、その後に建物から出て来た人が金貨を入れてくれた。しかし、あまり買い物客は反応している風ではない。

バスキングはある程度慣れてしまうと、人が反応しない時には勝手に演奏が楽しくなってくる。久々と言っても一週間ぶりのバスキングでリハビリを兼ねていたので、演奏の細かな部分をチェックしていく。

あのフレーズは弾けるけど、このフレーズは感覚が鈍っている。

そんな風に勝手に演奏していると、ちらほらとコインを入れてくれる人が増えてきた。買い物客も白人が大多数であるが、コインを入れてくれるのもやはり白人の人達だ。

浮いてしまって何の反応も得られないかもなんて考えは、ただの私の取り越し苦労であったようだ。

演奏を終えるとキアリーともう一人のお客さんがCDを買ってくれた。キアリーは「来週も出ないか?」と誘ってくれたが、翌朝出発だと伝えると、残念そうな仕草をした。

私は演奏の機会をくれたことに礼を述べて握手をして別れた。

帰り道に小川に架かる橋をふと見てみると何故か昔良く遊びに行った滋賀県の朽木村を思い出した。

そう言えば、この街の景色はどこかしら日本の風景に似ている気がする。日本の風景で、山の斜面と頂きを少し鋭角にすると、こんな風景になるかもしれない。

道行く人も目が合うと挨拶してくれる。

ここの人たちはとても気さくだ。

もう少し長くいれれば良かったのにな。

そう思いながら宿に帰り、晩ご飯の後早起きに備えて就寝した。

続く。

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