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台北・バスキング・デイズ vol. 8

西門の片隅で愛を叫んだのけもの

 「スーパーイタコモードが使えなくなってきている。」

ふと、そう思ったのは台北生活にもすっかり慣れてしまった頃だった。

1日のルーティンがほぼ決まっていて、昼前起床、156飯包で昼食、スタバで読書、この流れは天候に関係なく、夕方からは、晴れの日であれば5時ごろから西門町の片隅で二時間ほどバスキングをして、雨の日は宿のオープンスペースで読書、もしくは文章を書く作業をしている。

バスキングスタイルも定まってきて、台北に来て最初の週末は三時間ぐらいはイタコモードをフル稼働していたが、平日の状況が週末と異なり、夜8時を過ぎると途端に歩行者の反応が悪くなることがわかったということもあって、極力疲れないバスキングにシフトしていった。

ただ、この頃は2時間の演奏が限界で、その上、たとえ休憩を入れたとしても、後半は力が全然入らない演奏になってしまうことが多かった。使おうと思ってもイタコモードが発動しないのだ。

映画「魔女の宅急便」で主人公のキキが魔法を使えなくなってしまったのは何故だっただろう。思春期特有の心情の不安定さから来るものとかかもしれないが、私はもう既にそんな年齢ではない。

プロバスカーからバスキングが趣味の人に降格した35歳無職の一般人男性である。第一に原因として考えられるのは、そう、加齢とか。いやいや、もっと夢とか希望に満ちたものであっても良いのではないか。

確かに、日々続けている背中握手ストレッチのおかげで、長年悩んでいた腰痛ともおさらばしたので、街中を歩いていても爽快感がある。全く痛むことがないのだ。背伸びをしても大丈夫。体を仰け反らせて見上げた空はこんなにも青かったんだ。

ま、たいてい曇ってるけど。ともかくも健康の問題が解決できたのは大きい。ならば、バスキングの結果に良い方向に反映されてもよいはずなのに、逆に反比例していないだろうか。

ひょっとすると、日々の充実度が高いとバスキングはうまくいかないのか。思い返してみると、初めてメルボルンに行った時、最初の三ヶ月くらいはギリギリ生活できるくらいの収入で、コツコツ貯金していたのだが、年が明けた時に、全く稼げなくなってしまった。

そこで、バスキング仲間の助言に従って、失敗したらメルボルンに骨を埋めるような覚悟で、帰りの航空券代を全て使って、新しく機材を導入したおかげで、稼ぎが倍になり、バスキングが軌道に乗ったのだ。

しかし、そこから苦難がさらに続いて、ギターの弾きすぎで、持病の腱鞘炎が悪化してしまい、親指と人差し指に全く力が入らなくなって、中指と薬指だけでタッピングとアルペジオをこなし、たった4曲のレパートリーで乗り切ったのだ。あの頃の経験があったので、今は「トラブルが多少あってもなんとかなるだろう」という安心感があって、堂々と人前でギターが弾けるようになった。

当時はとても必死だったのだ。

それに比べて、今はどうであろうか。完全に旅行者気分だ。

雨が降っても焦燥感など微塵もない。むしろ、「雨よ振りたまえ。休みになりたまえ」と天を仰いでいるくらいだ。バスキングに行ってもCDが二、三枚売れたらそれで二、三日の生活費が賄えるのである。

10元銀貨がジャラッと入れば、「これで宿の洗濯機と乾燥機が回せる」と小さな満足感に浸っているのだ。

一度バスキングに行けば、大抵次の日は雨になるので、二、三日に一度ぐらいのペースでしかバスキングに行けない。なので、収益と支出がほぼ同じなので、財布の中身はずっと変化しないままである。紙幣が若干減って、コインが増えているので、両替をしている気分だ。

そして、バスキングの疲れで快眠できる。健康のためにバスキングをしていると言っても過言ではないかもしれない。

ある晩にテゥさんが話しかけてきた。

「ちょっとお願いしたいことがあるんですが。日本語の文章を音読するので発音が合っているか聞いてくれませんか。」

テゥさんは勉強熱心で時々日本語のニュアンスについて質問をしてくるのだが、こちらであまり日本語を話す機会もないので、いいですよ、と快諾すると

「人は欲望に身を委ねてしまうことで、信念を捻じ曲げてしまう。」

おいおい、なんて例文のチョイスなんだ。

そして、内容が若干心に刺さる感じがする。

さらに畳み掛けてくるテゥさん。

「台湾には中国側の人、台湾側の人がいますが、元々台湾側の人が中国側に変わるというのは、信念がないですか」

いや、それはその人の状況によるし、何に対して信念を持っているのかによるでしょう。としどろもどろに説明する私。

しかし、台湾に来る前にはあんなにCD売るぞって息巻いていたのに、この体たらくはなんという心境の変化だろうか。

「三国志の武将、リューフ(呂布)は信念がないですか」

もはやテゥさんを止めれるのは誰もいない。

呂布は確かに自分の養父とか主君とか殺しているし、信念がないとも言えるね、なんて会話をしている時に思い当たることがあった。

三国志のちょっと前の時代に活躍した賢人、崔子玉の言葉で「四殺」というものがあるのだが、ネット上にも触れている人が少ないので、ここぞという時に披露して、ささやかな承認欲求を満たしているのだ。

「人は欲望を持って自分を殺して、親は子供に財産を残して子供を殺し、」と続いていくわけだが、人はいつの時代も本質は変わらないということを感じずにはいられない内容である。

この格言を思い出した瞬間にあることが頭に浮かんだ。やはり、講師時代に蓄えたなけなしの貯蓄のせいだろうか。

人様に言えるほどの額ではないが、物価の低い台湾で、しかも今回は格安の宿を予約でき、格安の航空券を手に入れることができたので、この台北滞在による支出のダメージはそれほど大きくはない。よって、バスキングが上手くいかなくても、焦りや不安は全く生じないのだ。

むしろ、健康になってきている分、ラッキーだとさえ思っている。台北にはバケーションで来たんです、バスキングは健康のためなんです、なんてスタンスに陥ってしまうのも無理がないことなのかもしれない。

そう言えば、ソロギタリストのAki Miyoshiさんとコッチ君の三人で話しした時にバスカーが貯金しない傾向があるなんて話題になって、「それは個々の計画性の問題では」なんて私は言っていたのだが、今になってようやくわかった。貯金はバスカーをダメにする。

無論、一般論化するにはあまりにもデータ数が足りないと思うが、ある程度説明はつくのではないだろうか。

バスキングなんて、芸術活動という華やかさよりは泥臭い重労働に近い。それに、全く見知らぬ通行人が大勢に見られている中、延々とパフォーマンスをし続けるなんて、冷静に考えたらだいぶ恥ずかしいことしている。

周りの人たちは観光を楽しんでいる旅行客や、友達同士もしくはカップルや家族連れで散策を楽しんでいる人たちで溢れているし、近くの店の従業員に「あぁ、またあの変な奴来ているよ」ってニヤニヤと笑われたりもするし、「自分は台湾にわざわざやって来て一体何をしているんだろうか」と自問自答しながら、孤独感や疎外感と日々戦っているのだ。

そんな苦しい思いをするぐらいなら、宿でのんびりとネットサーフィンでもしていた方がマシではないか。いや、しかしだ。バスキングをしたからこそ得たものがあるじゃないか。

ある人はスピーカーの真ん前であさっての方向を見ながらずっと黙って突っ立っていたのだが、セットが2周終わったぐらいで「君の音楽はtoeに似ているね」なんて声をかけてくれてCDを買ってくれた。

また、別の人はギター教室の先生で生徒に聞かせたいとCDを10セット購入してくれた。勿論ディスカウントさせてもらったが。

人通りの少ない時間には、「メインストリート方がたくさん人がいるよ」と声をかけてくれた人も一人や二人ではない。

バスキングは体力と精神力の勝負でもある。しかし、凄まじいエネルギーを使って本気で演奏しているからこそ、そこに呼応してくれる人もいるのだ。

もしかすると、これが最初で最後の台湾かもしれない。

だからこそ、宿でテゥさんのタイ旅行の話を聞きながら腐っている場合ではない。

さぁ、行こうではないか。

我らが戦場に。

次回最終回。

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