エルスウェア紀行について―好きな音楽、あるいは道行を照らすランタンの話
『エルスウェア紀行』というバンドがある。ヒナタミユ (Vo.Gt)と、トヨシ(Dr.Gt)の男女二人組によるバンドだ。どんなバンドかという詳細な説明は彼らの公式サイトに任せよう。私がしたいのは一年半ほど前に出会った彼らの音楽がいかに好きで、どこが素晴らしいかという話なのだ。これは自分の心を整理するための個人的な日記でありラブレターであるが、願わくば一人でも多くがその音楽を聴き、この気持ちを共有してくれれば嬉しい。
本題に入る前に、まずは一曲聴いていただきたい。
約一年半ほど前にリリースされた彼らの1st Album『エルスウェア紀行』の一曲目に収録されている『エルスウェア紀行』という楽曲である。アルバム名にバンド名を冠すことは(それが何枚目かというのは様々ではあるが)ままある。しかし、更に曲名にまで重ねてくるのは相当なレアケースなのではないだろうか。ましてや、一発目のアルバムのド頭である。
仮に「エルスウェア紀行、いいよね」と言えば、そこにはバンドの話である可能性と、アルバムの話である可能性と、曲の話である可能性が内包されるわけだ。シュレディンガーの何とやらである。ややこしすぎる。
閑話休題。そこに意味が込められていることは明らかだが、その真実を知る立場にない私がしたり顔でその中身を語ることには抵抗がある。あるのだが、それでは話が進まない。だから、ここからは全て私の想像の話である。
素直に受け取るのであれば、やはりこれは彼らの"所信表明"なのだ。
彼らはバンド名の通り、"どこでもない場所を旅する記録"を標榜して現在活動しているが、以前は『ヒナタとアシュリー』という別のバンド名で活動をしていた。制作体制には多少の変化があったとも聞かれるが、コアとなるバンドメンバーに変動はなく、通底する音楽性にも変質はない。
それでも、上記のコンセプトを強く打ち出すにあたって名を改めたのは、言葉に対する誠実さ故か、あるいは願いの強さの表れなのか。いずれにせよ、そうして新たな名前を幾重にも重ねてリリースされたその楽曲は、その世界観を手のひらサイズで体現する完璧な名刺となっているように思える。
彼らの掲げる"どこでもない場所"という言葉は、まるで何かの物語のようなファンタジックな雰囲気を纏っている。詞の言葉選びから、そうした気配を端々に感じることもある。しかし、そうした楽曲群を聴いて最も強く刺激されるのは、心のとても柔らかい場所にあるノスタルジックな感情なのだ。
未知たる幻想と過去たる思い出は、一見すれば最も遠いところに存在しているようにも思える。けれども、それらは今ここに存在しない、つまり"どこでもない場所"にしか無いという共通項によって現実から隔てられているが故に、何とも自然な調和をみせるのである。この着眼点の鋭さに驚かされた。
かつて田舎に暮らしていた祖父の角張った顰め面と、夏空の下でひまわり畑にたたずむ顔も知らない少女の姿は、どちらも心の中にしか存在しない。だからこそ、それを抱いて生きたいのだ。郷愁と幻想のあわいを揺蕩うような彼らの音楽は、そんな願いを包み込んでくれるような情緒に満ちている。
この二年半で世界は大きく様変わりした。その様子については、具体的な内容を書く必要すらないだろう。我々は今もその世界で生活を続けている。そうした最中で、彼らは一つの楽曲をリリースした。
これまでの彼らの楽曲の多くは、先に挙げた『エルスウェア紀行』を筆頭に、穏やかでどこか懐かしい、共通した雰囲気を漂わせていた。しかし、『少し泣く』で展開される力強いドライヴ感はどうしたことか。叙情的な歌声はそのままに、今までにないアップテンポな入りから、あえて静かに抑えられたサビの展開、そして痺れるようなギターソロ。(最高!)
従来とは異なる新しいアプローチの音作りと対応するように、込められたメッセージ性も変化している。これまではどちらかと言えば現実を離れていくような感覚だったが、『少し泣く』は現実と対峙し、それでも抗いながら前へ進もうとする不倒の精神が前面にあるのだ。その眼差しはもはや、彩度で言うと30から70ぐらいまで鋭くなっている。そんな気がした。
私は楽曲の幅を感じさせられるのと同時に、次にリリースされるのはどんな系統のものになるのだろうと想像していた。そして、2021年11月23日に行われたワンマン・ライブにて、予告されていた新曲が初披露された。
テンポ面で言えば前曲よりも従来に近いが、またしても新しいアプローチがとられていた。ピアノとストリングスを前面に押し出した全力で情緒的な旋律に、乾いたような諦観を漂わせるトラジックな詞が載せられている。
最後まで明確な救いの描かれない絶望的とも言える曲ではあるが、柔らかな歌声とエモーショナルな展開によって悲壮感が中和されることで、どこか終末モノにおける"心地よい破滅"のような雰囲気も帯びている。その印象を強めるのが、中盤に挿入されるワルツ・パートだ。
それはマッチ売りの少女が今際の際に見た景色のように、つかの間の幻に過ぎないのかもしれない。それでも、避けられない"終わり"をただそれだけのものにしないため、込められた祈りには違いないと思いたい。メッセージ性の異なる『少し泣く』にも、よく似た光景が描かれているからだ。
この二つは、同じものを見つめているようにも思える。個人的な感情や思い出は、それ自体どうしようもなく無力だ。それでも、そこから汲み出した何かが、明日へ向かって心を動かすための活力となることもきっとある。
それぞれに新しいサウンドを響かせながらも、不屈と諦念が背中合わせに存在する距離感の扱いそのものが、彼らがこれまでと地続きの場所へ立っていることを実感させてくれるではないか。
ワンマンで『ひかりの国』を初披露した後、ヒナタミユさんは「今日を絶望のまま終わらせたくない」と語った。そうして、予告されていなかったもう一つの新曲のタイトルを告げると、おもむろに演奏を始めた。
正直に言えば、その時の演奏について覚えていることはあまり多くない。それでも一つだけ、今でもハッキリと覚えていることがある。力強くかき鳴らされるギターに始まり、「ひかりのナイフひとつ 暗闇は途絶えた」と冒頭の歌詞を耳にした時、ああさっきのギターはまさしく闇を切り裂くナイフのようだったと思い、何か途方もない希望を感じたのだ。
約1年が経って、ずっと焦がれていたその新曲の音源がリリースされた。
彼らはこの曲のテーマを"再生"だと言った。その言葉が持つポジティブな響きとは裏腹に、決して明るく歌い上げるような曲ではない。だが、まさに夜明け前のように抑制された静かな響きからは、再生の道程に逃れようもなく付随する困難に挫けまいとする、確かな不断の決意が感じられるようだ。これは彼らにとって二度目の"所信表明"なのではないかとすら思う。
時に人は過酷な現在を前にして歩みを止めるが、その背を押すのはいつだって時間の積み重ねが生んだ内なる光である。これまでに彼らが送り出してきた、望郷と夢想を共に抱き締めるような楽曲群。そこに想起させられてきた風景こそが、まさしくそれなのだ。だから、これは紛れもなく希望の歌。彼らはそれをナイフ、あるいは月と呼んだのかもしれない。私にはそれが、これから進む先の道行を柔らかく照らすランタンの灯りのようにも思えた。
だから、きっとまだ何もかも間に合うのだ。必要なものはもう持っている。もしあるなら、そこにひときれのパンを加えるのもいい。
"どこでもない場所"を選んだ音楽には、誰のものでもある感情が宿っている。柔らかく穏やかで強かな彼らの未来に幸多かれと切に願う。
最後に個人的おすすめプレイリストを添えておくので、よしなに。(ちょうど1時間なので散歩にピッタリ!)