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#3|FACTFULNESSから見る"日本人"とは

第3回です。
なんか1日に2個書いてんじゃね、って気もしますが、下書きで題材を貯めてたので、わざわざ回数稼ぎしてるわけではありません。笑

では、本題に入ります。
noteでは、Twitterで情報収集してたり、ネットサーフィンしてたりする中で見つけた面白かった記事について学んだこと等も書いてみようと思います。
というわけで初回は『FACTFULNESS』という本から。


目次
1. 『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』概要
2. ここから読み取る日本人の価値観とやるべきことは
3. 結び


1. 『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』概要

もうブームは去っちゃったのかな…?2018.04.03に英語版の原本が出て、2019年1月に上杉周作さんという方が翻訳した『FACTFULNESS』という本ですね。
あー買いたい!でもテストやばい…ってことで、色々漁ってみると上記のリンクが見つかりました。

個人的に「図解」という行為は、人の思考の整理に役立ち、かつ本質的なその人の頭の良さを表すと思っているのですが(なので自分もできるだけ図解を心がけています…)、このブログを書いている米国在住のITコンサルタントの方は、気になった本などを図解して示してくださっています。「この人めちゃくちゃわかりやすい…!頭いい…!」と他のブログを読みながら驚愕しています。よければ他のもぜひ。


2. ここから読み取る日本人の価値観とやるべきことは

では、本題のFACTFULNESSの中身について、僕が一番学びを得た点について述べたいと思います。

10の本能的な間違い、それ自体は「確かにそう!!」ってすごく首を縦に振りまくりながら読んでいました。そんな中でも僕が特に思ったのはこの方も書いていらっしゃる通り、「日本人こそFACTFULNESSであるべし」ということです。ただし、この方の「日本人にこそ必要!」と言っている論拠とは少し違います

この方は「日本人って何でもかんでも二分化しがち、パターン化しがち。だからデータにちゃんと基づいて物事判断しようね」っておっしゃっています。僕は日本人はその上で深層心理ではもっと違うことを思っているのではないかと思うのです。

どういうことかというと、結論から述べるなら日本人は「中庸」をものすごく重要視するということです。つまり、例えば二分化・パターン化された概念があるとして、一方を全面的に支持している人は他方の部分的要素も支持しがちです。二極あれば極を好むというよりは、なるべく真ん中に居ようとする傾向があると思います。
これは例えば政党の変遷や法学における学説展開などでも見られます(絶賛テスト期間なので…)。具体例を出してもあれだと思うのですが、民法の総則・物権の範囲における問題で「所有権移転時期の確立」という問題があります。これは初め「①債権契約をした時点において所有権が移転」「②物権契約をした時点において所有権が移転」で二極化していましたが、いつの間にか「債権契約と物権契約の間で段階的に所有権が移転する」などのいわゆる折衷案などがたくさん出てきました。もちろんどれも根拠があっての学説で、実際の適用時に解釈が楽、などの様々な理由によって展開していきます。メリット・デメリットがそれぞれにあります。
このように、様々なところで日本人は「中庸」を大事にするのではないかと思うのです。

ではそもそもなぜ日本人は中庸を大事にするのでしょう。それは深層心理で日本人がその場の「雰囲気」を大事にする価値観を備えているからです。
例えば極的な主張をすればもちろん反対極から猛烈な反対を受けます。日本人としてはその状況は「雰囲気」としてあまり心地よくないと判断します。ここが海外の方のように白黒はっきりさせるタイプと違い、日本人特有の性質と言えるのではないかと思います。
これは東洋的宗教観が影響していると思います。東洋的宗教観では西洋的な自然を克服する感覚ではなく、自然と共存する感覚を持ち合わせています。日本における『侘び寂び』などはこれをよく表していますね。自然のリズムや行間、すなわちその場の雰囲気や情緒を大切にするのです。
結果的に、日本人は、西洋人が白黒をはっきりさせるのに対し、雰囲気を重んじ、「中庸」を選択するのではないかと僕は考えています。

まとめると以下になります。(これすらももはや、分断本能が働いていると思いますが…一旦許してください…)


という風な感じで、ここまでの議論を整理したところで、そもそも言いたかったことに移ります。この前提において、日本人こそFACTFULNESSであるべきと論じる論拠です。

僕が言いたいことは、「中庸」よくないぞ!ってことじゃありません。「本当にそれ根拠を持った中庸ですか?」ということです。
物事が本当に二分化していて、MECE(もれなくだぶりなく)の状態であるのならば、どちらかの論旨を正当な根拠を持って主張している方がいいに決まっていると思うのです。
一番良くないのは、適当に「えーどっちも良い面悪い面あるし、なんとも言えないよー」みたいな感じで中庸を選択し、思考を放棄しているパターンです。

日本人、というよりも、これは人類みなだと思うのですが、どちらかの主張を明言し主張するのは、責任が伴うことですし、それなりにパワーがいることだと思います。
そういったパワーを用いた思考をややこしいからと曖昧にし、データを収集せずに、中庸な意見を主張するのはナンセンスだと僕は思います。(同様に、無思考に権威者のいる「極」を選択し、主張するのもナンセンスかと。)

というわけで、日本人が「中庸」を選択しがちであるならば、FACTに基づいた根拠を持った「中庸」であり続けるべきだと思います。つまり、その域に達するまでパワーを用いて思考すべきだと考えています。そういう意味では、前述した学説展開は正しい主張だと思われます。(だからこそ現代まで残るのだと思いますが)


3. 結び

以上、FACTFULNESSから読み取る日本人の価値観を見てきました。

自分自身、無思考に「中庸」を主張することがあるなあと感じました。自分で言ってて自分で耳が痛くなるという笑。
例えば、人生における意思決定において。自分にとって厳しい道と優しい道があるとします。二分化ですね。こういう時日本人(僕)は、優しい道を選択し、その中で最も厳しい活動をしようとする傾向があります。そして、あろうことか、その選択をあることないこと色々と論理武装して、正当化しようとします。
こういうとき、まあ場合にもよりますが、"環境"としても厳しい道を選んだ方が結果良くなることが多いと思います。(あくまで"多い"だけで、前述した意思決定が本当に正しいこともあるかと。)

パワーを用いた思考を即座にこなせるようになりたいものです。以下のURLを使いこなせるくらい!

FACTFULNESS、いつか書籍で読んでみたいですねえ。
では、また!

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