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DeepLを見て検索の歴史を思い出す
DeepLを見ていて少し既視感があったのでそれについて書いてみます。
サンフランシスコ在住のソフトウエアエンジニア drikin さんが自分のポッドキャストで「もう英語勉強するのやめます」って言ってましたが、少し試してみると確かに一皮むけていて今までの翻訳ソフトとはレベルが違う。そして、Googleが出てきた時と同じ様な雰囲気を感じました。
今となってはGoogleって検索の元祖みたいに思っている方もいるけど、結構後発だったと思います。当時はYahoo!を始め、Infoseek, Lycos, Exciteなどが既にあり、さらにマイクロソフトがMSNを始めたり、全文検索のAltaVistaが出てきたりで「何をいまさら検索なんか」と思った記憶があります。しかも今では見慣れましたが、当時としてはありえないくらいとても質素なUIで、「これが噂になっているGoogle?」みたいな感じでした。
でも使ってみると「あれ、これなんか凄くない?」ってなる。それまでの検索ってろくな結果が出てこず複数の検索エンジンを渡り歩いて探すのが普通でした。そこにAltaVistaが出てきて「とにかくたくさん結果が出る」ということで評判になりましたが、まぁその結果も玉石混交なのでそこから選り分けていく作業が必要でした。でも検索ってそういうモノだよね、と思ってあまり違和感を感じていませんでした。
でも、Googleは欲しい結果が最初のページにギュッと詰まって出てくる。今では当たり前のことだけど、それを知らない人に取ってはびっくり。必然的に使い始めたらもうそればっかりになりました。そして月日が経つにつれてさらにどんどん良くなって行った訳ですが、それが検索そのものに対する人々の考えも変えてしまいました。
それまでは検索って情報整理の補助機能で、まずは自分で分類して管理するのが基本でした。時間をかけて検索して得られた結果はあとから自分ですぐに使えるように自分用にブックマークして手元に記録しておく。ところが、検索の精度が上がり、検索から素早く自分の欲しい情報にアクセスできるようになるとわざわざ整理したりブックマークしたりするのも面倒になります。ブックマークが増えてくるとその中を探し回らなきゃならなくなるし、分類分けして整理するのも面倒になる。それだったらGoogleで検索した方が早い。いつの間にかブックマークは使わなくなりました。
さらに「検索した方が早くない?」というのはWebサイトの検索にとどまらず、例えばメールだとかローカルなファイルやCMS (Content Management System)にも侵食して行きました。それまでは、一生懸命フィルタを書いてメールの自動振り分けをしたり、Wikiとかでも情報の階層構造を色々と考えてそれに合うようにデータを入れていったり。それが、検索が精度高く速くなることで、「取り敢えず全部一箇所にぶっ込んどいて、必要な時は検索すればイイや」ってなる。それの最たるものが Gmailだったわけですが、Googleの「何でも検索」文化に毒されていると思いつつ、便利なものは便利なので仕方ない。まあ、そうこうしているうちにメールはあまり使わなくなってしまってますが。
で、DeepL も機械翻訳の世界の勢力図を塗り替えるだけでなく、当たり前にあった「言葉の壁」を壊していくのでは無いかという気がしています。これまでは単なる補助ツールだった翻訳ソフトが「早く」「正確に」なるだけで、コミュニケーションのあり方を根本から変えてしまうかも知れない。
これまでは、海外の人とコミュニケーションを取るにはどちらかが相手の話せる言葉に合わせる、あるいは双方が「英語」という共通語を使うことで意思疎通を図っていました。海外の映画を見る時には字幕を読みながら観るし、海外の新刊書を読むにはしばらく待って誰かが翻訳してくれたものを読む。
そんな「今の常識」が「将来の非常識」になるんじゃないかという気がしています。当然技術が発展すればそういう世界は来るだろうけど、思ったよりも早くすぐ目の前に来ているかも知れない。自分が母国語で話した言葉が相手にリアルタイムに相手の母国語で伝わる。映画は一箇所で見ていても観ている人それぞれの母国語で上映される。新刊は世界同時発売でそれぞれ好きな言語で読める。
そんな世界が来てしまえば「なんでそうじゃなかったんだろう」って思うけど、来るまでは夢物語な世界。DeepLは世界を変えるGoogleなのかその手前でその可能性を示したAltaVistaなのかはわからないけど、そんな潮目に来ているんじゃないかなとふと思いました。
「そんなソフトができたとしても人と人の間のコミュニケーションの機微は機械には扱えない」と言う人は出てくるでしょう。実は自分もその一人。互いに肉声で話してこそわかるものがある。吹替版の映画なんかはダメでやはり役者さんの肉声を聞いてこそわかるニュアンスがある。所詮、訳されたものを読んでいるようではダメで、原書を読んで作者が書いたその言葉の一つ一つを味わうべし。
たぶんそれは正しくて、自分もすべて翻訳ソフトに依存してしまうことに違和感があります。母国語じゃなかったとしても気持ちを載せた言葉を直接交わすことで得られるものがある。
一方で、例えば「何がどこにあるのかを全部自分でコントロールしたい」と言って未だに階層構造的なデータ整理に固執している人たちや、もっと遡れば「機械が打ち出した画一的なフォントの文字には味わいがないのでダメだ」と言って手書きにこだわっていた人たち。そんな人たちは同じように正しくて、そして間違っている。いや、間違っているわけじゃないけど、有限な自分の時間を無駄にしてしまっているのではないかと思ってしまいます。
なので、現時点では自分は英語でなら読んだり書いたり聞いたり話したり、翻訳ソフトに頼ろうとは思っていないけど、「昔のやり方に固執しすぎて時間を無駄にしていないか?」ということは常に心に留めておきたいなと思っていたりします。