「自己紹介」=「経験」の振り返り(1991〜2003)

先日の初投稿で、これまでの経験を別記事にすることにしたので、自己紹介しながらこれまでの経験を振り返っていきたいと思います。

1991年9月9日、神奈川県横須賀市で生まれた。体重は約3,200g。生まれた場所だけは都会だが、父は釜石市、母は内陸の奥州市出身で、その後、父の転勤で静岡県裾野市での生活を経て、1997年にUターン。2DKの県営住宅(その後3LDKに転居)を借りて、釜石市民となった。
写真は母とまだ1歳にもなっていない私。

年長での転園となったため、転園先となった市立鵜住居幼稚園には1年も居らずに卒園。
当時はその後に建った鵜住居地区防災センター近くにあったが、震災で被災。小中学校と同じ高台に移転し、跡地周辺は「釜石祈りのパーク」となっている。
1998年、市立鵜住居小学校へ入学。現在は全校約150人規模であるが、当時は周辺の学校統合前で約350〜400人がいたのだから時代の流れを感じてしまう。
幼稚園のときからかんしゃくを起こしてしまい、一人遊びを好んでいた私はさほど友達が多くなかった。(今となってはそこまでの壁を感じないが)
また、当時はテレビゲームやポケットゲームの流行もあり、同級生の家にはプレイステーション、任天堂のテレビゲーム機シリーズなどがあったが、我が家はそこまで買ってくれるわけはなかった(経済的な理由)。他の環境と比べてコンプレックスを抱いてしまう癖は、この頃からあったのかもしれない。
また、日中は共働きだったため、鍵っ子生活を送っては団地の公園で先輩や後輩とキックベースや缶蹴りをして遊んでいた。
しかし、体育がめっぽうダメだった自分は、負けてしまうといじけて帰ったり、隠れるフリして家に帰るなど、へそ曲がりなガキだった。そして泣き虫だった。
写真は卒業アルバムから、当時は放送委員会にいた。小6当時の身長130センチ強しかなかったのも、これまたコンプレックスだった。
(一部加工しています)

5・6年生のときには、少年野球チームに入っていた。チーム名は「日向(ひかた)ライナーズ」。「日向」は自分が住んでいた鵜住居町の地区名である。
きっかけはチームの地域貢献でやっていた清掃活動。それに父が猫騙しで連れていき、そのまま加入した。
加入したはいいが、野球道具も買ってくれず、同級生のお下がりを使って練習。他のチームメイトが使っている道具が羨ましかったのはそのとおりだ。体育がダメダメな私は試合もほとんど出ることはなかったが、当時の監督の計らいで、6年の後半でセカンドで出していただいたのには感謝している。
その時の監督やコーチとは、社会人になって以降もつながりを持っていた。
写真は卒団記念写真集の中の1枚。バッティングがぎこちないのはいい思い出である。

こうして、2004年に市立鵜住居小学校卒業。市立釜石東中学校入学につながっていくが、中学時代の振り返りは次回にしたい。
ちなみに、学歴紹介のときは小中学校の経歴は省略するのが通例だが、震災で取り上げられたことや学校跡地に「釜石鵜住居復興スタジアム」があることも踏まえ、あえて記載した。

続く

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