電車内におけるかばんの持ち方の考察から東京での生きづらさに至る
沖縄にはモノレールという乗り物がある。簡単に電車だと考えてもらえればいい。僕はかつて東京に住んでいて、地下鉄やJRをよく利用していた。そして今は沖縄に住み、モノレールを利用している。この2つの乗り物について、ふとしたことに気がついた。かばんの持ち方だ。
山手線に乗るとき、人々はかばんを体の前に持っていく。これには様々な理由が考えられる。人の邪魔になる。似たようなことだけれど、かばんを背負っていると後ろの空間を占有することになり余分な空間を取ってしまう。何かを盗まれる可能性がある、などなど。そこで、かばんを体の前に持っていき、抱きかかえるようにする。
それに対して、沖縄のモノレールの乗客はそのようなことはしない。彼ら彼女らはかばんを背負ったままである。占有している背後の空間など気にしない。かばんとは背負うものであり、ただそのままの姿でモノレールに乗り込むのだ。ぶつかろうがなんだろうが気にしない。
東京と沖縄で比較したとき、もうひとつ似たような現象がある。エスカレーターの乗り方だ。東京では左側に立ち、右側を通行者のために空けておく。沖縄ではみなさん好きなところに好きなように立っている。
一体この違いは何なのだろうと考えてみて、ひとつの仮説を立ててみた。東京では人々はより物事をコントロールする方向で動いている。それに対して沖縄では人々は物事をコントロールしない方向で動いている。
先ほど書いた、かばんを抱きかかえる行為は、言いかえれば、かばんというものを自分のコントロール範囲に置くということだ。それに対して、かばんを背負ったままにしておく行為は、言いかえれば、かばんを自分のコントロール範囲に置かないということだ。
さらに言いかえると、コントロールとは統制であり、統制の反対語は自由だ。つまり、東京に住んでいる人はより統制されており、沖縄に住んでいる人はより自由(放任)であるということも可能だ。
ではどうしてこのような差が生まれるのか。おそらく、人の密集具合が関係しているのではないかと思う。人が多い(密集する)ということはそれだけ摩擦が生まれやすい。摩擦を少なくして多くの人が快適さを享受するためにルールが生まれる。たとえば、かばんを抱きかかえる行為やエレベーターの右側を空ける行為は、東京という超過密都市で人々ができるだけ快適に過ごすための暗黙のルールだ。
東京にはこのような暗黙のルールであふれている。東京で何となく生きづらさを感じるのは、蜘蛛の巣のようにはりめぐらされた暗黙のルールに絡め取られているからかもしれない。