幸福も不幸も、そもそもない。
精神科に外来で来てる人、
入院する患者さんの中で、
幸福を探して1日をデザインした人は不幸になっているケースが多いという統計が
僕の病院ではあります。
つまり、
何をすれば幸せなのか?
何をしている時に幸せか?
何があれば幸せなのか?
という事を考える思考Styleです。
このStyleを否定しているわけではありません。
あまりにも、自分が不幸と考える人には
提供する事もある思考法ではありますし
自分の幸福の価値観又は基準点を、客観視するというメリットはあります。
どんな時に幸せを感じていたかを、熟考することで
私ってこんな所に価値をおいている!\(°o°)/
と気付きもあるでしょう。
そのあたりではオススメできる思考Styleです。
ちなみに僕の幸せは、研究ができる事です。
現在は聴覚の研究をしていて、どの声が動画に向いているか?どの声が講義に向くか?
どの声が老人に届きやすいか?
というのを、ひたすら研究しています。
これが幸せです。
話は戻ります。
この思考Styleの、危険もあります。
それが厄介なのですが、
幸福中毒になるという危険です。
かわいい服を着てる時に幸せだと気づいた人がいましたが、そこへの気付きと共に
買い物中毒へと変換された人もいます。
幸福だと気づいた瞬間は、これで不幸とさよならできる!という強い希望も生んでしまうので
コントロールできる人じゃないと、基本的に暴走します。
幸福を考えれば考えるほど、
もー!何が幸せかなんてわからない!ヽ༼⁰o⁰;༽ノ
と嫌になってしまう人もいます。
他にも、幸福への気付きから
もっと!もっと!もっと!もっと!⊙.☉
と幸福で満たそうと暴走するケースもあります。
幸福ってのは、人それぞれです。
つまり、主観的なものです。
もっと噛み砕いて言うと、
思考。
それだけです。
だからこそ、幸せ探しをすることは
ある種ズレているとも言えます。
幸せは探して発見するというかは、
気づくモノってのに近いからですね。
自分の事を幸福と考えてる人
自分の事を幸福だと考えられる人
自分の幸福を数えられる人
幸福か不幸かなんてのを考えない人
何も考えてない人
何が幸福かを自分の中で理解している人
ま、ざっとこれらのタイプの人が幸福を感じてたりするのです。
不幸な人は、これの真逆をすれば
不幸な人になります。
極論の話をしましょう。
シベリア抑留で、日本人は
奴隷にされて
死ぬまで働かされた人達がいました。
そこで生き残っだ人の自伝ではこうあります。
ブタのケツをなめさせられたり
便器を舌で掃除させられたり
そんな生活の中で私はこう思った。
教科書で読んできた奴隷の人達がどのような心境だったのか、はじめて少し理解できた。
そんな経験ができた私は、ある意味幸せである。
そうだ。いくら私の肉体を支配できたとしても
私が幸福であると思うこの思考までは、彼らには支配できないのだ。
と。
ものすごく深い言葉である事は最初は分かりませんでした。
が、年齢重ねて、経験を積むなかで
このセリフの深みが少し理解できました。
ま、これ見てわかるように
人は
奴隷で、朝から深夜まで働かされて
便器を舌で掃除させられて、
飲食もまともに与えられなくても
それが、不幸か? 幸福か?
は自分の思考が決めることなんですよ。
つまり、この世に
絶対的不幸もなければ
絶対的幸福もないんですよ。
全て、我々の頭の中が
勝手に価値をつけていくだけの話だったりします。
なので、
みなさんも、今の自分を、環境を、状況を、
どのように思ってるのか?
それが全てってことですね
不幸と思うのもよし
幸福と思うのもよし
どう思って生きるかで、ストーリーは
大きく変わりますヾ(*’O’*)/
では、良い1日を✧\(>o<)ノ✧