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#7『友達のおもちゃを壊すということ』

楽しい雰囲気が一瞬で壊れてしまうような経験に限って、いつまでも覚えている。

別に雰囲気を壊した本人を恨んだりはしていないし、むしろそういう人間は自分の人生においてそれほど重要な存在ではない。
ただ、その言動ひとつで何もかもが滅茶苦茶になって、それ以前の気持ちにはもう戻れなくなってしまうあのやり切れなさは、何度経験しても耐え難い。

そのほとんどはどうでもいいくらい些細な出来事だ。

例えば、旅先で友達が、
「まだ歩くの?いつ着くんだ?」
と不機嫌な態度で威圧してきた瞬間に、僕は不自由な気持ちになる。
途端に彼の存在自体が足かせとなり、行きたい場所へは行けなくなる。
辿り着いたとしても元々あったときめきや興奮は削がれて、思いを馳せていたものは一気にガラクタへ変わってしまう。

他にも楽しくお酒を飲んでいる時に、他人が横暴な態度で絡んできて一気に場も気持ちもしらける瞬間がある。

少し前に難波で友達とお酒を飲んでいた。
すると偶然、学生の頃の1つ上の先輩が数人の仲間を連れて店にやって来た。
その先輩自体は当時は決して悪い人ではなく、むしろ優しくて堅実なタイプだった。
しかし、彼の連れて来た仲間が僕らに横暴な絡み方をしてくるので、何となくそれだけで楽しい雰囲気は壊れかけていた。

挙げ句の果てに、その先輩は僕たちに一言。

「こいつら、格闘技やってて喧嘩っ早いから気をつけや」

かつては堅実だった先輩が乱暴な仲間に便乗して、僕らを威圧してきたのだ。
その時の彼の表情があまりに気持ち悪いアホ面だったので、未だに不快な物(明け方の繁華街にある誰かのゲロとか)を見たりすると、彼のことを思い出す。

まあ、こういう出来事ってあくまで、誰かの悪意や自分勝手さが原因だ。
先にも述べたが、そういう鈍い人間は自分にとって重要な存在では無いので恨む気にもならない。
自分から見て善悪がはっきりしている物事は人生においてそれほど障壁にはならないのだ。

本当に救いようがないのは、誰も悪くないのに一瞬で雰囲気が壊れる出来事が起こってしまったときだと思う。

その代表が「友達のおもちゃを壊してしまった」瞬間だ。
悪意は無いけれど、起こってしまった以上誰が責任を取るんだ、みたいな雰囲気が漂う。
自分が壊してしまった時には、その友達が死ぬことを祈る、まるで太宰治が書きそうな感情だ。
自分が当事者じゃなくても最低な気持ちになる、自分が無実であることを必要以上に証明しなくてはならない醜い感情だ。

僕は人生で幾度となくそういう経験をしてきた。
(誰しもが経験するのと同じように)

例えば、小学生の時に友達の家でみんなで遊んでいた時のこと。
子供の頃ならよくある話で、じゃれ合いの意を込めて冗談で取っ組み合いをしたりする。
その時もいつものように、掴み合ったり大袈裟に暴れたりしてみんなで笑い転げていた。
ところが次の瞬間、取っ組み合いの振動によって、テレビ台の上に置いていたゲーム機が地面に落ちてしまった。
一気にその場の雰囲気は凍りついた。

誰でもゲーム機を1番大切なものだと思っている時期があるものだ。
小学生の僕らは丁度そういう年頃だった。
そして今まさに、この世界で1番大切な物がガチャンと音を立てて地面に叩きつけられたのだ。

結果的にそのゲーム機は調子が悪くなり、正常に起動しなくなってしまった。

当然友達は怒り狂った。
そして、取っ組み合いをしていた中のひとりの子が悪いという結論に至った。
小学生の僕らに論理的な考えなどあるはずもなく、ほとんど怒り狂った友達と、責任逃れをしたい僕らの感情的な判断だけで、その子が悪いということになった。

あの瞬間、僕は何度も死にたい気持ちになった。
1度目は必死に責任逃れをしている時に。
2度目は責任を押し付けられたのがもしあの子じゃなく自分だったらと考えた時に。
3度目は責任を友達に押し付けた罪悪感から。
そして4度目は、楽しかった雰囲気が一気に殺伐とした雰囲気に変わり、もう二度と元には戻れないような気がした時に。

自然にその子の家に行くこともなくなった。
実際にそれ以来彼らと遊んだ記憶が無い。
小学生の頃って、その後全く関わりのない同級生の家に遊びに行くものだ。
そして、"今は仲良くないけど" という枕詞と共に、そういう同級生の名前が飲みの席でたまに取り上げられることもある。

ところが一昨年の夏に、ゲーム機が壊れて怒り狂った彼と久しぶりにトレーニングジムで再開した。
僕はハーフマラソンに向けてトレーニングしていた時期で、偶然そこで彼と出くわした。
お互い生温い挨拶をして、僕はそれ以来そのジムに通うのを辞めた。
特に理由はないけれど、今後も彼と生温い挨拶を交わし続けることを想像すると胸のあたりがぎゅっと締め付けられたからだ。

これからも友達のおもちゃを壊すかもしれないというリスクと付き合って生きていくのだ。
その度に死にたい気持ちになるだろう。

数年前に名古屋に下宿する友達の家に遊びに行った際に似たような過ちを犯した。
友達は芸術系の大学に通っていて、部屋には彼の作品があった。
昼間はそれを観て凄いなあ、なんて会話を交わしたりしていた。
しかし夜になり散々酔っ払った僕は友達とふざけて取っ組み合いをして、その作品を壊した。

それ以降も彼とは度々飲みに行ったりしている。
つい先日も天満あたりを一緒に散歩した。

数年後にトーレニングジムで再会して生温い挨拶を交わすような関係にはギリギリならなかった。

友達のおもちゃを壊してもなんとかなる場合もある。

おわり。

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