お寿司『ヘレンとgesuidou』の感想
作・演出・衣装/南野詩恵
会場:こまばアゴラ劇場(京都会場:THEATRE E9 KYOTO)
「ヘレン」女学生たちの日常を、年齢も個性も違う女性たちが不思議なダンスを次々変化させてコラージュで描く
「gesuidou」主人公は下水道処理の作業員。下水道の物を永遠にかき混ぜ続ける作業員だが、見学の人間や一人の作業員の趣味によって次々と起こる騒動。底の見えない不条理で包まれている。
ダンスと演劇の2本立て。トイレ休憩を挟んで上演される2作品の共通点は“トイレ”
舞台衣装作家として活動する南野詩恵による団体お寿司。シュールな着ぐるみのような衣装を使った作品は私好みだろうと思っていたが、念願の初観劇。思った通り、 へんてこりんで奇妙奇天烈。
「ヘレン」は学校の少女たちをテーマにしているけど、女優・ダンサーたちはむしろ母親のような格好をしている。出演者本人も少女というより母親に近い年齢の人物たちで統一されている。だからこそ彼女たちの内面から少女性が滲み出る。女優陣は個性的で、特にyumiさんは一人だけ動きも遅く、動きも違う、センスも風変り。少女という存在は若くて元気で、というパブリックイメージで描く作家もいるが運動が苦手で内向的で自分の世界を持つ少女も勿論いて、私はそういう少女に強い憧れを持っている。yumiさんは年齢が分からないが恐らく出演者の中で一番年長だろう(違ったら本当申し訳ありません)。そういう人物から少女性を抽出するという所に私は共感を持つ。
「gesuidou」は主人公は男性俳優が演じているが、ハナコという名前で女性のような雰囲気を感じさせるがハナコが男性なのか女性なのかは明瞭にしない。作業員は素顔が見えない衣装であり性という物が包み隠されている。正体不明にもかかわらず何だか可愛く見えてくる。
2作品に共通するのは意図的に内面を出す作風。
空間に関して意外だった部分がある。お寿司は奇天烈な衣装の団体できっとビジュアルがすごいというイメージで見に行ったが、 gesuidouこそ奇妙な衣装だったが、2作とも素舞台でビジュアルよりも身体表現や奇妙な物語で勝負。 舞台装置に頼ることなく、何もないアゴラの空間に奇想を立ち上がらせる。
gesuidouの我々の足下にある下水道は得体の知れない何かだ、というのでいくつかのホラーを想像した。しかし、そんなありきたりをぶっ飛ばすトンデモ展開でニヤリと笑った。
ここから、物語の結末を踏まえた感想を書く。あくまで感想だ、私の個人的な物でありお寿司の描いているものではないのでそこは注意ね。
下水作業員の一人はマジックが趣味だ。彼女(彼かもしれないけれど)は、マジックショーを下水道内でするがラストは分身するマジックをする。感嘆する主人公だが、その分身は消すことができない。この世界においてレモンより大きい物は決して消すことができないという理だそうだ。そしてみんなで誕生日パーティーをして終わる。
この作品、トイレというテーマで描かれた2作品。地上と下水について描かれるがトイレという存在自体は直接描かれない。それどころか、「ヘレン」で普通に見ていたらトイレそのものが存在しない。一人ずつ退席するシーンがトイレを現しているのだろうと思うのだが。
この奇妙なダンス作品は女優たちが一斉におなかを叩いて終わる。兎に角ドコドコ叩く。
私は、この2作のつながりが全く分からず、今ひとつピンとこなかったが、ふと思った。
この2作品は妊娠を描いているのではないかと。
毎日を楽しく過ごす少女たちが突然妊娠し、突然学校から姿を消す。妊娠という物は嬉しいもので喜びとしてバレエを踊るが、しかし少女に妊娠という物は重く、その果てにおなかを叩く,つまり堕胎をするという、それがどうトイレと繋がるのか。
いや、もうこれは単なる連想ゲームなのだけど、流産という言葉をいらないものを流すという物として扱って、その比喩としてトイレなのではないかと考える。
それを考えると、女学生を扱った作品にもかかわらず女優が全員エプロンをして母親のような恰好をしているのも、女学生にして母親という2つの属性を持った人物として描いているのではないか。
そしてこの流された先が「gesuidou」である。我々の地下にあるものは下水道だけじゃない、お墓だって地下にある。gesuidouとは、いらないものとして流されたものの魂の集まる墓場ではないだろうか。
マジックで現れた分身はレモンより大きい物なので消せないというのは、そのまま成長した胎児は堕胎処置ができないという意味ではないか。
主人公の慌てる姿も、予想外の妊娠に驚く男性の姿にも見えてくるし妊娠して困惑する女性本人にも見える。ハナコという役を男性俳優が演じるというのは妊娠には必ず男女が必要であるという表現にもかかっているのではないか。
だが、ここはただの墓場ではない。流された先で生まれた子供は、誕生を祝われる。私にはこれを水子地蔵のような生まれなかったものへの祈りがあるように感じてならない。誕生日パーティーの道具一式を持ってくるときに黒子として「ヘレン」の女優陣、が現れて祝う。生むことがかなわず流してしまったが、祝う気持ちは確かにあった。
という風に解釈したけど、あくまで私がそう思ったっていう話なのでこれで抽象的な作品の見方が固定されるのは良くないし作者もこんな解釈全く違うと思うかもしれないので。