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紙魚『毛皮のマリー』 の感想
演出/濱吉清太朗 脚本/寺山修司
会場:スタジオ空洞
毛皮のマリーと呼ばれている男娼には部屋に閉じ込めている一人息子がいる。息子は、能天気に毎日室内で蝶を追いかけている。マリーの過去が語られると息子への愛憎が浮かび上がってくる。
紙魚は2021年旗揚げだが、去年1年で佐藤佐吉演劇祭「見本市」選出、演劇人コンクール最終上演選出、公社流体力学賞の短編部門年間5位など一気に大活躍。(一個変なの混じってるけど)
既存の戯曲を時には解体と再構築、時にはオーソドックスと独自解釈と常にチャレンジを行う。そして今回
寺山修司の名作からアングラを脱色し、愛憎を持った人間の会話劇として構築する。ゼロ年代以降の現代口語演劇マナーに則り、即物的でなくデザイン化された演出。舞台装置も、簡略された浴槽やホワイトボード、パソコン、モニターにはチープな合成映像。と、徹底的にアングラの装飾を削っている。
特徴なのは、マリーと下男を女優が演じること。ご存じの通り毛皮のマリーと言えば美輪明宏(丸山明宏)の代表作である。それを女性が演じるというのは大冒険。ジェンダーは身体的見てくれだけではない、という意思を伝えるキャスティング。女性と見分けがつかないほどの美貌を手に入れたが、醜悪なその心を描くという意味もあるのだろうか。
ただ、個人的に惜しいと思ったのは毛の生えた、マリーになる前のマリーの表現として白熊の着ぐるみを使ったこと、獣のような獰猛さを・執念を持っているのを表しているように見えた。 着飾っていても、毛を剃っただけの獣というのを現しているのだが
これがあまりにも素晴らしすぎた。冒頭で引き込まれたこそ白熊のまま“毛皮”のマリーをやってほしかったなぁという思いがある。この白熊のインパクトに比べ女優のマリーが印象的に弱くなってしまった。演じている智恵さんは気迫に満ちたマリーを演じて(特に少年時代のマリーが絶品)いたのだが、このあたり手数とアイデア豊富な演出が裏目に出たなぁと。
演出でいうならばスピードは、ちょっとじっくりやりすぎたかなと言う印象。早くするものでは無いのは勿論だけど アングラ感を引いたので場を持たせる空気が減って、そこをどう演出で持たせるかが勝負どころだったが、マリーの愛憎劇に引っ張られてでデザイン化できなかったなぁと。会場の白い壁がさらに白く感じる時間がいくつかあった。
大人になったマリーの息子・欣也が最初から最後まで左の隅にいる。彼はパソコンで文章を打っていて、この『毛皮のマリー』という話が彼の手記である。文章は反対側の壁に投影されて、より戯曲のテキストを存在立たせる。彼の伸び切った髪はかつての幼い自分に絡まる。それは髪が絡まっているのかいまだあの幼い自分から分離できないのか。
魅力的だが、もっと上手に活用できたなぁとも思う。せっかく常に存在しているのだし濱吉さんほどの手数の多さならばにっち色々できたはず。今回はただいるだけの時間が多かった。せっかくの武器を何故使わないと思ったところもある。
紙魚は三作目で、映像含めてやはりこの人の演出は面白いと思う。 アングラ伝統芸能保存会みたいになりがちな寺山修司を現代的に作ろうとしたのは素晴らしいと思う。
戯曲の解体と再構築と言う意味で、中野成樹とアフタートークなのも納得 。アフタートークで寺山は消えかけているという話があって、そんなことないでしょとは思ったが柴幸男(ままごと)『あゆみ』や冨坂友(Aga-risk Entertainment)『ナイゲン』が色んな劇団が上演しているのに対してマリー含めた寺山戯曲って大体上に書いたような伝統保存会みたいな劇団ばっかりだ(それも好きなんだけどね、ストロベリーソングオーケストラみたいな変わり種もいるし)。
そういう意味でこの演出はアングラ解釈と共に心中しかかっている寺山戯曲を生存させる上演だったのだろう。
全部うまくいってるわけじゃ無いけど、挑戦はそう言うもの。意欲のある演劇ほど面白いものはない、