ラオスの「カオチー」について
信念を焼き込めたような、見事な焼き色。鎧をまとっているかのような厚い皮を蹴破るほどの「えぐれ」には、活きがいいという表現を通り越した、「雄叫び」とでもいうエネルギーを感じる。
「フランスパン」の中でいうならば、大きさは「バタール」に当てはまるだろうか。三十五、六センチという長さ、野球バット(の太い部分)のような胴回り、そしてクープ(切込み)も、たいていのものがそのように三本だ。
いわゆる「フランスパン」は、同じ配合で同じように捏ねられた生地であっても、パン一個分に分割する重量と成形する長さ、そして焼成前のクープの数がきっちりと決まっており、それによって、フィセル、バケット、バタール、ドゥリブル…等々呼び名が変わることが、ナントカ協会によって厳しく仰せ付けられている――らしいんだけれども、ラオスにまでそんな区分が適用されていることはなかろう、先の「バタール」と呼ぶのも私のいい加減な「見た感じ」である。それよりも一回り小さいものは「縦一本スッパリ」に揃えていたりするところもあれば、デカかろうと小さかろうと、クープは縦に一本スッパリ切ったのみ、というところなど、作り手の好みや主義によって姿は分かれるけれども、ざっと概観して、割合「一本」が多いだろうか。が、同種の棒型パン・「フランス的なパン」が同じく広まっている近隣のカンボジアやベトナムに比べると、ラオスでは「三本」も結構よく見られると思う。
ラオスのパン――は、「カオチー」と呼ばれる。ラオスはかつてフランスの植民地であったために、一目でそれを連想できるパンが根付いている。隣国のカンボジアとベトナムのパンも、同様の所以だ。
市場や路上で、どの売場もこじんまりとしており、売り手もたいてい一人のみ。小さな簡易テーブルや、リヤカーを引っ張ってきてカオチーを積み重ね、人通りの多い場所に居座り「買おうかしら」と近づく人を待っていたり、あるいは、ミカン収穫用のような籠に、入るだけのカオチーを入れ、町や市場内を移動しながら、目が合った人に「どう?」と声をかけたりしながら営業する。
見ものは、「クープ」だと思う。
生地の窯入れ直前、その肌にシャッと刃を入れた部分は、生地に熱が回り膨らんでゆくなかでめくれ上がり、パックリと開いて裂けてゆく。「切り込む」という、ちょっとしたきっかけ作りを人はしただけであって、あとは生地自身が自ら起こす現象であるのだが、外側の「茶褐色」と、裂けた部分の「白」が、えらくクッキリと分かれた色をしているために、まるで全身コンガリ茶色に焼き上がっていたカオチーを、人がその手で強引に引き裂いたかのようである。片手で表面を押さえ、もう片方の手の爪を、その表面に立ててズボッと深く差し込み、そのままエイッと左右に力を入れて開くという図が生々しく思い浮かぶほど、クープのめくれ上がりは躍動感あり、その踊り上げる部分が収まっていたはずの中身・色白部分は、メリメリミシミシと荒れた肌を晒し「剥がされた」過去を物語る。
爽快な「勢い」だ。深いところから厚い皮を突き破り、大きく反り返っている姿は、窮屈な服に押し込められた贅肉が、くしゃみと同時に解放されてボタンを飛ばしたあのよう。或いは、ストレスを溜め込んだ日々、「これもよろしく」と書類を放られて「自分でやれ!」とつい大きくなってしまった声。
その、「スッパーン!」と弾けるパワーを生地に注入するのが、作り手の腕の見せ所――かどうかはさぁ知らないけれども、そういうつもりでなくてどういうつもりだろうか、と言うしかない。鋭利に立ち上がった、小指を思わせる妖艶は、またミロのヴィーナスやらの彫刻が表現する、身にまとう布のはためきのように波を打つ曲線もまた思い起こさせる。
さて、これを割ろうとしたら、きっと「バリバリ」という音が……。
――と思うんだけれども、見た目に反して「古いじゃんコレ」という経験が少なくない。それも、昨日今日じゃないね?というのが分かるぐらいに。
皮は確かにぶ厚いのだが、時間が経っているためにキレはなく、北海道土産の「鮭とば」のようにムギューッと引っぱり千切る必要があり、顎もよく動かして噛まないといけない。
「焼きたてだったらどんなに…、」と思えど、このカオチーには「次」がある。もちろん、カオチー単独でも買うことも出来るのだが、たいていのお客は「具」を挟んでもらい、プリント紙をクルッとまいて輪ゴムでとめられたカオチーを受け取ってゆくのだ。
なんらかの台を備えた店なら、たいてい「具」の入ったタッパーを並べたり、具を細かく刻んだりするまな板も置いている。パテやハム、焼き豚、キュウリに香草、なます…と、結構豊富に揃っており、選り取りみどりに悩むなぁ…というと、フツウはそうじゃない。「一つ頂戴」と言ったなら、カオチーの側面にナイフでゴシゴシ、切り離さないよう慣れた手つきで素早く開き、その「すべて」を挟みこむのだ。
カオチーは、箱入りバウムクーヘンにも負けず劣らずズッシリとその体重を増やし、単なる「サンドイッチ」という言葉で流すにはどうにもモッタイナイほど、味の方も一筋縄ではいかない深遠なる世界を見せてくれているのである。
主役は、「具」か。カオチー自体はたとえ古かろうが、たいして問題ではないのではないか――といいたくなる、それは単なる「皿」に成り下がっているように思えるのだ。
いや、それはかえっていいことなのかもしれない。その「具」の重さ、汁気を受け止めるには、柔らかい「焼き立て」では役不足であり、古くなって頑丈さを備えた古いパンの方がむしろ望むところなのではないか。「具」の為に存在するパンならば、「カオチーのみ」買っても、革靴をくわえている感が否めないのは当然なのだ。袋に何本も買っていく人を見て、「求められている」カオチーについて考え込む。
が、惜しいなぁ。本命は「具」だと開き直るしかないけれど、やっぱり「パン」そのものも味わってみたい。フレッシュならば、単独で食ったって「旨い」だろう、コレ。「具」の存在に頼らずとも、自立してゆけるパンだろう。
「焼き立て」が食べてみたい。
――ってそれはもちろん、不可能ではない。
これを持ち歩くだけで精いっぱいよ、と、「それ」が全てであるところ。カオチーをミカン籠に載せ、その背後にしゃがみ込んでいるおばさんを見つけたならば、とりあえず近づいてみよう。「具」に意気込んでいないところは、「フレッシュ(焼き立て)カオチー」に期待が持てる確率が高いのだ。
パッと目に映る籠のそれはたった二、三本であって頼りないのだが、それは単なる「見本」。たいていの場合、本命はその下の、クッションのような布の奥にある。「欲しいんだけどなぁ、」という感じでおばさんに近づけば、割れ物茶碗を包みから開くように、分厚いそれをめくってくれるだろう。その布は保温用の布団であり、下には鉛筆を立てるように、刺せるだけ刺して詰まっているカオチーがある。
開かれた中身から、その温もりがふんわりと伝わり、同時に香りも顔面にもやもやっとたちこめた。
ベニヤ板のような匂い。
焼き立てまもないのだろう。やはり、叫び声と共にめくれ上がったような、力強いクープの姿があった。
さっそく割ってみると、皮はバリバリと期待の音を鳴らし、現れるのは少々クリーム色がかった「白」。
脱脂綿の塊を引き裂くような、モッサリ・モチっと、両手をがっしりと組んだ力強さがある。フワフワと軽くはないが、しかし柔らかい。
小麦粉と塩と水、パン酵母(イースト)とが合わさり、焼き上がった。その事実をひねらずストレートに表現した、素直な風味である。埃にまみれて奥の方に隠れている、その甘味を嗅ぎ取りたい。大人しいけど確かに存在するものを、ほじくるように堪能したい。――が、味わおうと口に放れば、その噛み応えの心地よさに酔い、集中できないのだ。果たして快感なのは、その弾力か、それとも木のような芳香か。臆病な甘味なのだろうか。分かるようでわからないもどかしさがまた、魅力的ではある。
つばの広い藁帽子を被った、籠を前にしたおばさんは、そんな感動など全く知ったこっちゃないというように、隣の野菜売りのおばさんと体育座りで会議中だ。「隣の奥さんったら、昨日すごい剣幕でご主人を怒鳴っていたのよぅ。」とかいう、冷やかしの笑いが入っており、こんなスゴイものが、井戸端に添えられるありふれた存在であることに、くらくらするほどの羨ましさを感じる。
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