仕込み(成形) ~サワンナケートのカオチー④
~仕込み
「カオチー」を作るために最低限必要な材料とは、「小麦粉」、「塩」、「水」、そして酵母・即ち「イースト」であるが、それに加えて少々の副材料が添加されている。
作業人員のうち、たいていは年若い「新入り」がその役を担うことになっているらしい、この「仕込み」。生地の配合を覚えるだけでなく、材料が混ざってゆく様子を眺め、捏ねあがった時のその感触を把握する。それがどう発酵し、果てはどういう風に焼き上あがってゆくのか――その変化を一から眺めてお勉強するのにいいボジションだろう。
まずは材料を計量して、機械でミキシングする(生地を捏ねる)。
ミキサーは、モーターが回れば「ナルホドここに引っ掛けられたゴムが、ハネ(生地を捏ねる「腕」を担う部分)を動かすのだな」などと見て分かる、その仕組みが剥き出しになった古い機械であり、それにセットする専用容器の中へ材料を投入する。容器は大人の両腕でその円周を余裕で囲うことのできる、業務用と言うにはこじんまりした大きさだ。
「カオチー」を作るために最低限必要な材料とは、「小麦粉」、「塩」、「水」、そして酵母・即ち「イースト」である。
今回、三人のうちの末っ子・ヴァンさんにひっついて、この作業を眺めているのだけれども、――ヴァンさんに限らずいつも思うことには、「大雑把ですなぁ」と、正直。
粉は、錆びたボロッちい量りの上に、それが二十キロ入っていた「カラ」の袋を載せ、その中へとドサドサ煙を舞い上がらせながら入れてゆく。粉は一回の仕込みに付き、五キロ。…とはいえど、目盛を一応は見るのだが、(量りの)ハリの揺れが止まるのを待つことなく、「これで良し」とパッ取る。
生地を発酵させるモト「ドライ・イースト」や「塩」は、家庭科の授業のように「すりきり」などとやるわけではなく、まぁだいたいスプーンに大盛り、とかであって、おそらく毎回同じではなさそう。
「水」。その量もまた数値は失念したが…というか、量りにプラスチックの青いバケツを載せていたのを確かに見てはいたものの、十分の一ぐらい残して、全部を入れてしまわない。後から、ミキサーが動いている最中に「足りないかな?」と残りをチョロチョロ加えるのだが、それでも余る場合もあるし、それでは足らずに再び蛇口をひねる時もある。
まぁ、水量に関しては、「生地の状態を見て」調整するというのは、パン作りに置いては当たり前というか常識的なことであるからは納得するとしても、一応量りはするものの目安でしかない、という感じである。場当たり的というか、あまりに肩肘張らない計量を前にして「それでいいの?」と戸惑ってしまうのは、毎日、決まった時間に同一の味でもって焼き上げねばならない「日本のパン屋事情」をこちらが引きずっているからだろうか。
…「イースト」の量が違えば、発酵時間が変わってくる。発酵時間が違えば、生地状態も変わってくる。
「塩」は、味付けや、生地のコシを強くするだけでなく、イーストの働きを抑制する作用を持ち、つまりは生地の発酵にも影響を与える。
つまり計量の「正確さ」は、これから進行してゆく生地の発酵状態を把握するため、一定の品質を維持するためにも必要なことだと言えるのだが、――なんて、うーむと唸れど、窯から出てきたカオチーたちは、シレッと「いつもの顔」をして焼き上がってくるのだ。…もしかすると計量なんてものは、神経になるほどのことでもないのだろうか、目盛りを焦がすほど凝視するなど無意味か、なんて思えてくるぐらいだ。いや、そうではなく――「感覚」で分からんようじゃあだめでしょ、か。いい加減に見えて、実はバッチリ「正確」なのだ。……とも正直どうかと思うが、まぁともあれ、毎日毎回、その流れに乗っかって動く人間の体に染み込んだ「カン」の世界の話であり、シロウトが、最初から目分量でテキトーにやったならば、大失敗で大後悔の事態は免れないだろう。
スイッチ・オン。
「ハネ」は、ぼんぼりの骨組のような、巨大ホイッパー(泡だて器)型。電源を入れると数秒の助走を経て、真下に取り付けられた容器の中を、勢いよくかき回し始めた。と、ヴァンさんは、ハネにつられて一緒に回ってしまう容器部分を、両手で押さえ、時には逆方向に回してやるなどしながら、中の材料がまんべんなく混ざってゆくように調整する。車のハンドルを握るようなその動きには、手慣れているなぁ感がある。
ヴァンさんと「ちゃんと」対面するのは、今回が初めてだ。ここにやって来るのはもう何度目かだが、今までヴァンさんはおそらく、軒先や室内を駆け回っていたチビちゃんの群れのなかにあったのだろう。
かつてのワンさんとは違い、目が合ったら必ず照れ笑いで返してくれるこの末っ子君は、まるで中学生のように幼く見える。…って「末っ子」に限らないというか、そもそも「三人兄弟」というのはこの工房内の「いま」に限った話で、年をかえて訪れたその度に、「ドウモ」と初見の兄弟姉妹に出会っているような気がする。いや、兄弟かと思ったらこっちは従兄弟、そっちはその兄弟、甥、姪…など、「ドウモ」「ドウモ」といろんな親族が出入りしているし、いまひとつ世帯の区切り線がよくわからない。初めての時からいつ訪れてもステキでカッコいい屋台のお姉さんを筆頭に、この人たちはいったい何人兄弟姉妹であるのか、そして何世帯が一つの家に同居しているのか、把握できていないままだ。
ホアさん、ワンさんはこの仕事に腰を下ろす決心をしたのだろう、いつからか、ここに来れば必ず会える職人となったようだが、作業場に三人いるうちのひとり・たいてい最年少であるメンバーは、訪れる度に兄弟(親族)間で入れ替わっていた。どうやら、外で仕事を見つけて自立するまでのつなぎとして手伝っている、という感じである。
とはいえ、毎日のことだ。鍛えられたものである。仕込み、そして「天板ひっくり返し」さえも時々兄たちに替わってこなす様は、もう新入りなどという位置は通り過ぎ、もちろん「お手伝い」という言い方はもの足りず、立派な「片腕」としてその地位を確立しているようだ。職人として、外の世界に出たって君はダイジョブ、と肩を叩いて見送れるほどに。
それにしても、ミキサーの回転は相当なものであり、摩擦熱が心配になってくる程だ。フツウ、フランスパンってこんなに捏ねないよなぁ、と思うが、ここではこういうモンなのであり、そうやって生まれる個性を尊重すべし。「『フランスパン』とは~」なんて能書き垂れようとも、ここはラオス。ソレはラオスの「カオチー」なのである。
あっという間・五分かそこらでスイッチを切ってしまい、もう?と、その中を覗いてみると、…ウン。滑らかそうな、搗きたての餅を思うような生地となっている。
となれば、次に行われたるは生地の「分割」。つまり「パンひとつ」の大きさに生地を切り分ける。…って、アラ?
――そういやそうだった、ココ。
捏ね上げたら生地を寝かせて放置する、というのが「パン作り」一般であるが、ここでは、それをすっ飛ばしてさっさと「次」の行程に進んでしまう。酵母は温かい場所(三十~四十度)で活動が活発になるが、ミキサーの摩擦熱に加えて、この室内温度――何をしなくても汗が滴り落ちる炎天下の時間帯(現在午後三時過ぎ)に、メラメラと窯では炎が躍っている、なんていう世界だ。酵母は目をカッと開いて活動する気マンマンにあり、歩幅を緩めない着実なペースでもって、生地は遠慮なく発酵し続けていることだろう。もし日本の「パン作り」のレシピをコピーして渡し、忠実に寝かせる時間を割いてしまったなら、過発酵もいいところだ。
ヴァンさんは、ミキサーの傍に置いてあったバケツの中の水を、手だけでなく肩から腕にかけてたっぷりと塗らすと、臼から餅を取り出すように、生地をうまく抱え出した。そのまま、一歩二歩ヨタッとしながら、距離としては三メートルほど離れた木製の作業台へ、投げ広げる。デーン、と。
重力のままにビヨーンと垂れ下がる生地にヒヤっとしながらも――ほぅ、パン生地を扱う時はいつでも粉(手粉)を振るもんだと思っていたが、水というのがまた「餅搗き」と被るようだ。
対して作業台は手粉にまみれ、木の継ぎ目やキズのある隙間に入りこんだのが、白い線を濃く浮き出している。その上で、手もまた真っ白くした兄たちが二人、カシャカシャとスケッパー(生地を分割するための道具)を持って、やってきた生地を切りとり始めるのだ。
「スケッパー」、…とはいえ、製菓用品売り場に引っ掛かっているような立派なものではなく、定期券よりもやや大きい程度の、やっぱり「工事現場でいらないやつを拾ったでしょ」と発想するほどひどく擦り減ったもの。その刃を、生地の上から押し付けてパックリと切り込み、同時に逆の手を添えて、その断面を台にこすりつけるようにしながら表面を張らせて「丸い形」に整える。それを台のスミに置いたら、また塊から一つ切って丸めて、と、どんどんと並べてゆく。
この時点で既に、「焼き上がった匂い」が漂っている。…ような、気がした。
「(一回に捏ねる生地から)、四十五個出来るよ。」
手を腰にまわし、ホアさんは言った。
粉が五キロで四十五個ということは、と、諸々を計算してゆくと、カオチー一つがおおよそ一つ二〇〇g。バターロールなどの「小型パン」が、一つ五十g前後だから、その四個分とすると…。エ…?私。毎度、一度に全部食ってしまっている…。
太るのも道理だ。「当たり前」と思っていた自分の許容量がどんどんと変化を遂げてゆくのもまた、長い旅の醍醐味でもあり――…あんまり、というか全然嬉しくない。あとの苦労(ダイエット)がたまらんのだ。
~成形
生地を全て丸め終えたら、――切ったり、丸たり、の行為で負担をかけたことを謝るかのように、生地を少々・十五~三十分ぐらい放置して休ませる。この小休憩を「ベンチタイム」という。
…んだけれども、それもやっぱりすっとばして、「成形」の過程に進む。
生地を見てみる。一番初めに丸めておいたヤツだ。――あぁ、あったまったぁ、と、風呂からあがるような、上気し緩んだ顔がそこにはある。そう、醗酵しているのだ。最後の生地を丸め終わる頃には、自然と生地はベンチタイム後の状態にある、ということだ。
「カオチー」のスタンダードといえば、棒状の両端が少々すぼんだ、ほぼ「ナマコ形」。ドッチボールのように丸い形を見たことがないことも無いが、ほぼナマコで判を押している。それは、同じくフランス統治下にあった隣国・ベトナム、カンボジア同様だ。大きさは処によってまちまちだが、長さ二十センチを切るほどに小型であることはそれほどなく、ある程度しっかり食べなさい、という大きさをしている。ひとサイズのみで売られているところもあるし、大・中・小とサイズを取り揃えているところもある。サワンナケートのココはというと、一本食べきりサイズの長さ約二十センチと、三十センチの二種類。小さい方は、そのまんまでももちろんだが、具を挟んで売るのに使う。大きい方は、食卓で切り分けオカズと共に召し上がれ…のつもりだろうか。だがコメ(餅米)を主食とし、まさにそれ(コメ)がバックバクと進むようなオカズ世界の中で、パンに適したものは果たしてどれかというのがいつもギモンなんだけれども、まぁ、その話はまたの機会に。
丸めておいた生地を一つ掴み取り、台にペチッペチッと三度ほど叩きつける。反動でビヨンと伸びたのを手前に折り、その閉じ目から向こう側へクルクルっと巻いたら、ナマコ型の出来上がり。――と、こう書くとなんとなく、落ち着いて階段を上っているような感じではあるが、実際、この作業は三秒ぐらいでこなされてしまう。「クルクル巻く」というか、もう、「スッ」と、息を吐くように一瞬であり、タップダンスの足取りのようにスキはない。何個もやるからこそモノにしたリズムだろう。
ホアさんがまたまた言うには、「一日に約三百個」。――ほぅ、と頷く。
成形したナマコは、タンス箱の中へ。
捏ね上げた直後はあえて寝かせる必要はなかったが、成形後は別である。窯の中に突入するその前に、安静な状態で醗酵してもらう。いわゆる「二次醗酵」というやつで、要するに最終打ち合わせというか、晴れ舞台までのウォーミングアップとでもいおうか、生地に、英気を養って膨らむ気マンマンの体勢を整えてもらうのだ。
成形台と同じく、くっ付き防止の手粉を真っ白に振りまかれた中に、生地の綴じ目(巻き終わり)が確実に「下」になるようにして、置く。これが最終的な「かたち」であるから、発酵した生地がくっついて変形してしまわないように、間隔をとることにも注意して並べてゆく。
当然、二箱目、三箱目…と積み重なってゆく。大丈夫大丈夫、このパン用タンスはスミっこに二十箱以上あるんだし。…と余裕こいていても、仕込み続けたこの先、全部詰まってしまうのである。
意味なく存在するものは、ここにはない。
みんなその辺に座ってひと休憩、さぁさお茶でも、とするなどして、――約四十分後。
重ねられた木箱をずらして中を覗いてみれば、一つ一つ、生地はぷっくり膨らみ、柔らかそうな感触が見ただけで伝わってくる。発酵前とは違い、「表情」がある。まるで桃色をした子供のほっぺただ――などと凝視していると、木箱の中、生地の周りを「アリ」がチョコマカ健気に這っていた。
と、アリをジッと見るこれまたついでにつくづく思うのだが、…なんとまぁ、年季の入った木箱であることだろう。
積み重ねて中を外気から遮断しているようでも、所々、朽ちて穴が開いており、だからアリでもクモでも入っていけるのだ。…いやそんなことよりも――「おそらく『いい酵母』が染み付いているのではないか」と想像力をかき立てられるようなボロさではないか。
田舎の叔母が保存食を置いている、母屋の奥にある古い「蔵」を思い出した。――そう、この工房を纏う空気は、あそこに似ている。中に充満する独特の匂いは、味噌、そしてその他漬物類が染み込んだ、空間まるごとが発する匂い。空間が味噌の風味を作り、味噌もまた空間を作る、という、継ぎ足し継ぎ足しされて何十年とかいうウナギのタレのような奥行きある、空間。
「発酵」とは原則、環境によるものである。古いチーズ工房には「菌」が住みついている、というのはよく挙げられる話で、つまり同じモノであっても、それが育つ場所により、異なる風味を備えてゆく。
かつて、自然界に浮遊する「菌」を頼りに、各作り手が酵母を培養して生地を醗酵させていたのが、科学的に人口製造物である「パン用酵母(イースト)」の発明が為されてからは、その使用が広く当たり前となった。イーストの粒は一見、薬の類のようでピンとこないが、人工的といってもれっきとした酵母菌。ここが地球である限り、自然環境と関わりながら息をする。
要するに、カオチーの味に影響を及ぼす「ここだからこそ」の菌もきっと根っこをおろしているに違いない、ということだ。そう期待させる、木箱の朽ちよう――深い皺を刻み、悟りを開いた老人を思わせるその奥深さに、ホレボレするのである。
シロアリが住み着かないことを願うけれども、ともあれこうして、この笑顔ほころんだぷっくり生地は、大爆笑すべく窯へと連れてゆかれるのである。
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