カラバフのケーキ屋さん⑥~晩飯探訪・ステパナケルト
ケーキ屋に別れを告げ、夕陽を背に、橙に染まる町のメインロードを東へと進む。
道の脇に立つ建物の、古めかしい感じは変わっていないんだろうが、なんとなく、以前よりは整然とした印象を受けるのは「道」のせいだろうか。きっかりと「歩道」が分けられて歩きやすく、車道も新たに舗装されたように見える。
適当に、しばらく道沿いに歩いてゆくと、緩やかなカーブを曲がったその前方に、モワモワっと白く霞がかっているのが見えた。…煙?そして、ムォン、と何かを抱えた空気が顔面に押してくる。「匂い」…。
――焼肉…。ケバブ屋か。
「ケバブ」。「アルメニア料理といえば何?」と彼らに問えば、たいていコレと答えが返ってくる。とはいえ、ケバブは中央アジアやトルコなどの西アジア、中東にかけても耳にする料理名でそう珍しくもなく、要は肉の串焼き(炭火焼)だ。アルメニア語では一般に「ホロバツ」というのだが、「ケバブ」でも通じる。
なぜソレが「郷土料理」? ちなみにお隣のグルジアでも、ケバブを食べないことはない。が、それを「郷土料理」と持ち上げられるのがあんまりない(ような気がする)のは、想像するにそのほかにもヨイショする料理名が多いからではないだろうか。余所者がサラッと通り過ぎ様に目にした感想をいうと、グルジアにおける食のバラエティとは、豊富。うってかわって、…といっちゃあ失礼なんだけれども、アルメニアにおけるバラエティというと、イマイチ「よくわからない」のが正直なところだ。「ケバブ」――それ以外に、紹介するような特徴的な料理が特に無いということだろうか、とイジワルく勘繰ってもしまうのだが、まぁ、外国に向けた日本食の紹介で必ず出る「すき焼」「天ぷら」が家庭で毎日食べられているわけではないように、それは「一見」であって、家庭のなかに入り込んでみれば、きっとアレコレが存在するに違いない。――とはいえ、である。
ソレを前にしてしまうと、やっぱりこれは確かに「アルメニア的」だ。公用語(?)「ケバブ」と呼んで「串焼き食い圏」の他構成員と肩を並べておくよりも、やっぱり「ホロバツ」。堂々、そう呼んでやりたくなる貫禄がある。
まさにここならでは、と言えることには(といってもお隣グルジアでも可能だろうが)、肉に「豚肉」を使うことが少なくないことだ。中央アジアや中東、西アジアの多くの地域は、その大半がイスラム圏である。つまり宗教的な制約により口に出来る肉は限られ、肉の選択肢は羊肉が多く、或いは鶏肉、となるのだが、アルメニアでメインに使われるのは豚肉。そしてこれがまた、野趣あふれんばかりの、いかにもの「串焼き」な見た目である。
串に突き刺す肉片とは、…って「片」というよりは、肉塊。カタマリだ。たいていの場合、大男の握りこぶしといってもオーバーではなく、日本の「焼き鳥」にある一本の肉を寄せ集めても、こちらの肉一切れには及ばないだろう。それが四つ五つ突き刺してあるのが、一本。――この串がまた凄い。フェンシングの剣かというほどに長く、先っぽの刃がリアルで、凶器にもなり得る迫力だ。
これに対すれば日本の「焼き鳥」ってばまるでコビトの食べ物。そしてまた、自然物を利用した「竹串」にはなんとも穏やかなものが感じられてくるし、おちょぼ口でも食べられる大きさに揃えた肉片、更には肉に梅や紫蘇、チーズやらを器用に巻き込んだりなど、手の込んだ演出がチマチマとあり得るのがなんとも奥ゆかしい。「焼き鳥」を日本料理と紹介されることに対し、――醤油を使った「甘辛」に調味する、というだけジャン。肉を串に刺して焼くなんて、世界のどこでも在り得る料理だろうよ――と少々納得しかねていたが、やはりアレは立派に「日本的」なものであったのだなぁと、思い直されてくるのである。
ステパナケルトに話を戻そう。ケバブ屋、もとい「ホロバツ」屋が数軒、道沿いに連なっている様子だ。どの店からも白い煙がわんわんと立ち昇り、いかにも「いまが売り時」と言わんばかりである。
仕事帰りを狙って?――そういえば、行き交う人の姿も目立つようになってきていた。ちょっと先にも、何らかの品物――野菜や雑貨を軒先に出した、商店らしき小さな建物が並んでいるのが見え、そこそこに賑わいのあるエリアのようだ。ホロバツ屋は、エリア入り口でそれを率先して演出しているよう。
少々歩を緩め、近付いてみる。炎のチラつく熾火の上に、ナニを載せているのか…なんて想像する必要もなく、それはもう肉である。どこも赤い生肉を吊り下げた肉売り場があり、そのすぐ隣で網を出しているのだ。「肉屋ですが、焼いてもいます」か。
と、「こっちゃこい」。西日を顔いっぱいに受けてその前に立つ、白衣のオジさんたちが手招きする。…ナゼ白衣なのだろう。肉屋をはじめ、生肉を扱う人はたいてい、理科の先生みたいにコレを纏っている姿が多い。エプロン=白衣?
だが、手招きされると逃げたくなり、「へいらっしゃい」と笑顔で吠えられれば「あとにします」と踵を返してしまうのが私だ。「いえ、あの、エエト…。いいお天気ですなぁ」という風に、曖昧にニヤ付いて頭を掻きつつやっぱり逃げてしまう。ええい、意気地なし。
とはいえ、こう焼肉臭にまみれていると、体はどんどん欲してくる。……買ってみようか。最初はソレを食うつもりなど更々なかったのに、なんとか手に入れずにはいられなくなってきた。不思議だねェ…。
買おう、とキッパリ。――その前に、「肉塊」を食うとなれば、たっぷりの野菜も欲しい。
向かいの八百屋で、トマトを買って帰ろうか。ざっと周囲を見回すと、ある一軒の店の前に、ホロバツ屋よりも随分と人だかりがあるのに気が付いた。まだたいして暗くもないのに煌々と電球が灯っており、何の店かと近付いてみれば、ガラス越しに見える三段の棚、そこに並ぶのは――パンだ。直径三十四、五センチはあろう、円形で平べったい…。
――と、入口から、店の奥に「タンディル」も見える。パン屋だ。
「タンディル」というのは、インド料理が好きな人ならば、「ナン」――インド料理店の入り口でガラス越しに見える、ソレを焼き上げている姿を思い浮かべることだろう。上部の穴から生地を入れ、壺状の内部の側面にそれを直接貼り付けて焼き上げる、パンの焼成窯だ。そこにあるソレは石レンガ積みの様相で、盛り土のようにドーム状になっている中心に、パッコリと穴(窯の入口)が開いている。「井戸」と言った方が似ているか。
おぉ…。この辺りでよく見かける楕円形のパンもこのタイプの窯を使って焼き上げられるのかもしれないが、私としてはそれ・タンディルから連想するアルメニアのパンといえば、薄焼きパン・「ラバシュ」の方だ。ラバシュとは、食器拭き用の布巾のように薄くも、画用紙二枚分ほどに大きいパンである。薄いから、カップラーメンを待つよりも早く、短時間で焼き上がる。よって、生地を広げて窯に突っ込んでは、焼き上がったのを出して、また入れては出して…と、焼き職人の忙しい仕事っぷりが見ものだ。…ってどこで見たのかというと、アルメニアの縁深い地、トルコ東部において。ちなみにイランでも見た。
食べる時は適宜・B5程度の大きさに千切り、それに肉やら野菜やらをくるくると巻き込んで、口に入れる。春巻きの皮や海苔巻の海苔のように、他の食材とすっかり合体させ、ひと口に入るような「カタマリの一要素」にして食べるもんだから、「パン自体を食った」ことの実感は、なんとなく薄い。
一方、オカズがスープ類のみであるとか、「包む」必要が無く(難しく)、口の中にフカフカとした食べ応えが欲しい時は、一センチ~二センチ程度の厚みある「楕円形」のパンがある。
オカズの方に華を持たせたい時は「ラバシュ」、「パン食った感」が欲しい時は「楕円形」――とか用途、或いは気分によるのか。お呼ばれされると、パンはこの二種類が籠に盛って出されていたりする。
ともあれ、「窯がある場面」を目にすると嬉しくなってくるが、しかし棚に並んでいるのはそのラバシュでもはない。平べったいパン――とはいえ楕円ではなく、「円形」だ。そして、いやに色白い。モヤモヤッと焦げ色が斑についた、全体的にはうっすらベージュ肌のパンであり、かつ「焼き立て」――合致したイメージは「グルジア」(ジョージア)だ。これはグルジアのパンではないか。
白衣(やっぱりエプロン)の女性が、また一つ、焼き手によって井戸穴から掘り出されたパンを手に取り、棚に置いてゆく。きっと、シロウトの手では一度じゃすんなり持ち上げられないほどの、アッツアツだ。――大きい。直径40センチはぐらいはあるだろうか。
「グルジア」。色白であるのもさることながら、ソレを彷彿とさせる一番の特徴は、なんといっても「焼き立て」であること。――それが一番の魅力でもあるんだろうな、と、人々の集いに紛れてみて、やはり思う。かの地ではごく当然のことだが、アルメニア、そしてカラバフでは滅多に遭遇することではない。たいていパン屋とは、日本の駅の駅弁コーナーみたいに、小さな小屋でパンだけを並べた売店のみあり、その工房は別の処にあるらしく目にすることが殆どない。だからパンとは、ほの温かければ御の字であり、焼きたて「ホヤホヤ」では決してないのだ。
へぇ…。五年前は全くもって気が付かなかったが、カラバフに「異国」をウリにする店があったのか。まぁ、隣国であるからして、似たようなものや影響がみられることは珍しくないだろうが、異種をついばむ楽しみとでもいうのだろうか、ちょっとしたウキウキが、私でさえも感じられる――どころではなく、久方ぶりの「焼き立て」を前にして食欲がさらにメラメラと搔き立てられてくる。都会のデパ地下にある「全国お取り寄せコーナー」のように、「四方八方」がその場に展開されると実に軽率に映るというか、萎えてくるのだが、ほんの気分転換とばかりに紛れ込んでいる光景には、垂れ下るオレンジの電燈と二重写しに明るいエネルギーの瞬きを感じるようで、頬が緩んでくる。
買うべし、だろう。
「グルジア」とはいえ、この地に住まう多くの人々が手を出すものならば、それはもう「ここの味」だ。とはいえあの「巨大」は、二日分はゆうにある。絶対に、残る。パンはその都度買うのが断然旨いのだから、なるべく食べきれる量のものを――なんて躊躇していては始まらないのだ。余ったら、チャイに浸して食うなり、なんとかしろ。
パンを堪能しながら、肉串しを食う――あの匂いに魅了された「さっきの自分」を捨て去る気も無い。パンと肉。炭水化物とタンパク質。組み合わせは至ってノーマルだが、食べる前から腹が太くなるのがわかるようだ。
どちらもアツアツ状態で宿に帰るには、どっちから手を出した方がいい? ――どっちが待ち時間が少ないか。というと、バサバサと井戸窯から放られるパンの回転は当分続くことだろう。まずは、串焼きを手に入れるべし。
仕事から解放され、家路につくことが出来る喜びか。一日を無事に終えようとすることへの安堵感か。その足の行き着く先には、大切な人たちが待っているからだろうか。
朝市の、品定めするお客とそれに物怖じしない売り手のアピールが織り成す、ピンピンと立ち上がった活気――よりも、「賑わい」はどこか穏やかだ。その表情や肩に、柔らかいものをに感じる。
片手に、トマトをぼこぼこに詰めた袋をぶら下げている彼らを見ていると、なんだか羨ましくなってきた。ワーイ帰ろう、と、17時きっちりに職場をあとにして、バッグをぶらぶらさせながら駅へと向かっていた自分の姿とは、実はとても幸せ色だったのではないか――と、遠い空の下にある両親の顔を思い浮かべる。
それにしても。串焼きだけに限ることではなく野菜屋にしろ卵屋にしろ、「同業者」が軒を連ねる、というのが珍しくない。地元の人たちにとって、同種の店が連なる中から一軒を選ぶポイントというのは何だろうか。値段か。昔のよしみか。店主との相性か。なんにしても、「隣」なんてあからさまなんじゃないのと思いながら、いったいどこを選ぶべきか、気分とカンを頼りに歩いてゆく。
ガランとしているのに「へいらっしゃい」の勢いが強いならば、回転が悪くて古くなった肉を売っちまおう魂胆ではないか――などと勘ぐり、かといって、全く営業っ気もなくブアイソなところはホントに入る気がしない。
お客さんが丁度いる、というところがいい。店の人が忙しく動くその間に、何をどのように売り買いできるのかを観察したい。
四つ五つ通り過ぎ、また一軒の店――の前では電熱ヒーターが備え付けられ、庫内では横棒に貫通したまるまるの鶏が数羽、ゆっくりと回っていた。表面にいい焦げ色を付けてはいるものの、「電気焼き」はちょっと趣が無い。そそられない。ここも素通り…、と過ぎながらも、店内を一応チラと見た。
――と、奥にはちゃんと、焼き場があるのか。煙がそそるほどに立ち昇っているのが見える。店主らしき男性がそれに向かい立ち、背中の輪郭から炎がチラチラとはみ出している。
入口近くのガラスケースには、何やらを刺してある串が各種、彩りよく並んでおり、その前でお客と思われる人が、突っ立ったまま煙に燻されている店主の様子をただ眺めたり、イスに座って新聞を広げたりしている。
それぞれが目の前にものに気を取られているそのスキに、もう少し中を見てみたいと踏み込む――と、ガラスケースの奥には女性もいた。下を向き、何をやっているのか、その手元はケースに阻まれて見えないが、こちらの視線をすぐに察知したようだ。大きな目がぱちくりして、「あら?注文?」と言っている。リカちゃん人形みたい――カワイくも、なんと綺麗な女性だろう。その、空気の微妙な揺れが電流のように伝わったのか、店主は顔だけをこちらに向け、煙のせいで目が半開きのまま会釈した。「あんたダレ?」と言おうとするのを「あ、ようこそ。いらっしゃい」と言い直すような、混ぜこぜの表情。白衣ではなく、赤いシャツの普段着、というのに、いかにも家族経営的なこじんまり感が漂う。リカちゃんは、店主の奥さんだろうな。女性がいると私としてはやはり入り易い。――よし。ここがよかれとやって来ているお客もいることだし、なにより自然な、リキみのない反応がいい。
ガラスケースの各種――ゲンコツ大のぶつ切り肉、そして串にウネウネと波型にまとわりついたミンチ肉はたぶん豚肉だろうか。鶏の手羽先が五つ、串一本に貫通している。
野菜だけ、というのもある。日本ではこんなのお目にかからないよなぁという真っ赤な、野球ボール大のまるまるトマトが五つ、数珠繋ぎだ。巨大なシシトウやナスは、へた近くに串を打たれてブラブラと、ぶら下がるだけ刺してある。ジャガイモには、……「じゃがバター」のバター代わり?刺してあるイモとイモの間に、ピンポン玉ぐらいの豚の脂が挟まれて――焼いているうちにテカテカとコーティングされた様子が浮かび、唇がヌメッてくるようだ。えぇぇ、そそられる…。
だが本命はなんといっても、まずはその豪勢なるブタニク。でも、どう頼めばいいのだろうか。ひと串に、岩石のような肉塊四つ――は、一キロ以上あるだろう。…いくら食いたくとも、それはフツウ、ウチで「焼肉をしよう」といって仕入れる量だ(三人分)。これが一人旅の困ったところなのだが、しかしここで「この際、最初で最後の豪華な晩餐にしてしまおうか」――などとチラとでも思い始めると、空腹の勢いに乗って「そうしよう」とホントにそっちへ流されかねないのが私の困ったところである。
一息ついたようで、「さぁ焼いたげるよ」という風にこちらに近づいてきた店主のオジサン…とはいえ髪は薄いものの、肌から察するに四十代はじめごろ。いや、もっと若いのかもしれない。その奥の部屋にちらりと見えるボクはまだ小さいし、奥さんはリカちゃん人形。燻され続けて、の為かどうか知らないが、おでこがツルピカして笑顔に映える。
「何にする?」
「……ひとつ、いくらでしょう?」
その答えは、あぁそうか、「キロいくら」の、量り売りだった。ならば、「百五十グラム」などと言ったらどんなもんだろうか。
果たして、「これでいい?」と、ガラスケースからひと串を取り出し、刺さった中から「最も小さそうな肉」を指差して示してくる。
あぁ、「ひと串全部」じゃなくとも、肉ひと切れから焼いてくれるのだ。示された肉はそれほど小さくないハズだが、「ゴロゴロ」岩石に挟まれては「チマッと」見えてきて、やっぱりソッチがいい、とその隣を指差したくなるものの、そこはまぁ小手調べだとグッとこらえる。まずは肉をゲット出来ること自体が御の字であり、「いい、いい」と頷いた。リカちゃんの、こちらを見る丸々の目が本当にカワイイ。
素手で掴んだその肉塊を量りに載せ、電卓で「いくらね」と見せたなら、それを一つだけ改めて串に刺し、炭火の上に引っ掛けられた鉄網へ。焼きトマト、焼ジャガイモも食べてみたいな…という応用は、またにしよう。
――と、効率よく、この間に…。
気分上昇、この勢いに乗って臆することなくグルジアパンをゲット。座布団かというような大きなビニールをぶら下げて戻り、なんと上手い展開か――ちょうど焼き上がったところではないか。
主人はそれを、一枚の大きなラバシュを広げてその上に置き、香草少々を振りかけてクルクルと包む。…って、――エ。「ラバシュ」があったのか。
先に言ってくれ、という気分だが、同時に思い出した。そうなのである。蕎麦にはソバツユがつきものであるように、串焼きを頼めばたいてい、ラバシュは自動的に付されるものなのだ。ラッキー、とはしかし思うことができず、「…余分だったんじゃないの?」と、腹の中にいるもう一人の自分が冷たくボソッと呟いている。店主やリカちゃんに見られないよう円盤入りビニールを後ろに回し持つが、隠れるわけなかろう。ズボン越しに伝わってくる、ホカホカとした嬉しそうな熱が、なんか哀れだ。
ん……?
さっき通った店の前、白衣のおじさん達がまとまって座っている。取り囲んでいる…。
通りに、椅子を並べてテーブルを構え……碁? いやチェスか?――よく知らないけれども、ゲームに熱中しているようだ。ひとりだけを串の番人に残して――。
暇なのか。あんまり売れていないのだろうか。ならば、私は回転のいい、結構「当たり」の店を見つけた、ということだったのかもしれない。
カーブ地点へと道を戻る。ノートを手に抱え持つ若者や、スーパーの袋をぶら下げたおばさんが突っ立ち、顔を同じ方向へと向けて何かをじっと待っている。車線が歩道に食い込んだその場所は、バス停に違いない。
昼間の猛暑を悔い改めるような緩い風に、少女の髪の毛が揺れている。 時々膝に当たる、温かいビニールにせかされて、足早に家路…いや宿路を行く。はやく帰ろう。はやく食べよう。チキンの詰め物焼きにされるように、この腹いっぱいにすべてを満たしてやろう。なんの、グルジアパンだってもちろんだ。…と、アツアツの今のうちに、ちょっとだけつまんじゃってもいい。
と、西日に目を細めたその先に、迷彩服を着た兵士もまた家路か。トボトボと歩いている姿が浮かび上がっていた。
(訪問時2008年、2013年)
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カラバフのケーキ屋さん① ~定番「フワフワ四角ケーキ」
カラバフのケーキ屋さん② ~「ナゴルノ・カラバフ共和国」
カラバフのケーキ屋さん③ ~菓子累々
カラバフのケーキ屋さん④ ~味見天国
カラバフのケーキ屋さん⑤ ~「アルメニア・コーヒー」