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カラバフのケーキ屋さん⑦ ~迷彩服の背中


迷彩服の背中

 

「そうなの。兵士なのよ。」
へぇぇぇ…と、深い息を出してえらく感心される理由が分かった。たかが「占い」と馬鹿に出来ない――ということか。

 コーヒータイムが終わり、さぁ仕事を再開しようと意気込んだとき、カップを片付けようとするのを「待って」と、魔法使い・エニさんがそれを逆さまにした。
 あ、やるのか。
「コーヒー占い」である。飲み終わったら一旦カップを伏せた時、底に溜まっていた豆の粉がカップの内側に描く模様で、その時の運勢を占う、という遊びだ。トルコでも見ていたが、ここでもやはり、そういうもんらしい。
 エニさんはカップをひょい、と手に取り、その中身をこちらに向けて「どう?」。
 ――エ?
 どう、って…
カップの側面と底には、黒い砂粒が波打っている。砂丘の風紋みたいだ――けど…。
隣でクリームの入った容器を取り出しているアンさんに、そのまま「ドウゾ」と向け、バトンタッチ。占いの見方なんて、私は知らないのだ。
「ただ、何に見えるかを言えばいいのよ。その模様から、何を連想する?」
 模様が何を暗示すると「思う」か。…それって私の発想力であって、いいのかそれで。さしあたりのないことを言ってお茶を濁したいが、波模様から「海」――じゃああんまり芸がなさすぎ、考え無しである。
「花」と答えてみれば、しかし「ふーん。他には?」と返されてしまう。
…ひとつ言うだけじゃダメなのか。見て思い付くもの全部言え、では、占いの意味とは、果たして。
 正直、模様はどうとでも取れると思うが、「鳥」や「太陽」などととりあえず出してみると、「あとは…」といつのまにか本気で頭を捻っている。これは占うというよりも、好き勝手に「こじつける」ことが面白いのかもしれないと、ふと思った。
「じゃあ私も」と、アンさんもまた、自分のカップを伏せた。どれどれ、と覗いてみれば、これまた模様のタイプが全く違う。時により、飲み方により、模様は千差万別。だからこそ「占い」にもなるのだと、言いだしっぺの気持ちがわかる気がする。
 そのカップ(の底)には、あっちこっちに火を噴いて暴れまわっているような、荒々しさを感じる。パッと見て、「人だ」と思った。昔アニメで見た「ポパイ」のように、両腕を上げて筋肉を盛り上がらせ、踏ん張っている姿—―具体的な表現になってしまうが、それが「見た感じ」なのだから仕方が無い。逞しい男の人、ということだろうか。
 そう伝えるとアンさんは、エニさんと顔を見合わせた。へぇ…と、再び手元にもってきた艶々クリームを片手に、カップの底をじっと見て、嬉しそうな――照れたような顔をする。
「アンのダンナは、兵士なのよ。」
 フフフン、と、本人の口元がにやけている。普段、彼女からのろけ話は聞いたことはないが、アツアツ夫婦の程がうかがえる、そのカワイイ表情だ。

  兵士――。
ホロバツ屋エリアとは逆の、西へと向かうメインロードの坂を登る。そういえば顔用のクリームがなくなってきたな、と店の窓際に並ぶコスメ商品を横目に雑貨屋を通り過ぎると、「英語学校」の看板を掲げた、そう謳うにはあまりに小さい建物の出入り口周辺を、数人の子供たちが囲っている。塾みたいなもんだろうか。
 それもまた過ぎると、歩道脇の木々がモサモサと緑濃く重なってきて、その隙間から向こうに公園らしき広場が見える。ちゃんと動くのか、メリーゴーランドのような遊具もポツンとあるような、アレンジされた場のようだ。
 緩やかな坂ではあるが、日差しが強いからついハァハァと息が鳴る。さらに進むとやがて真正面には、メインロードの中でもメインなエリアとでもいいたげな、噴水さえあるロータリーが現れた。だが「ロータリー」とはいえど、単に車の為の分岐点ではなく、真ん中の噴水も威張り散らした感はない。大きな木々が囲んで緑色の密度は結構濃く、ベンチがあって人も座っているという、そこもまたちょっとした公園・「憩いの場」になっているのだ。
 道路を渡り、そのサークルの内側に入ってみる。噴水を囲む白いベンチが一周、段を下げてもう一周と、結構な数が備わっている。
 木に茂る深緑の葉が、いまちょうどいい具合に日陰を作っているところを選んだ。噴水の音にすがるよう腰をかけ、風に吹かれていると、カンカン照りのなかを歩き、くもの巣が張り付くように鬱陶しかった汗もスウッと、無かったことのように消え去ってゆく。密に囲まれた緑の中、チューリップの花弁から空を見上げる親指姫気分で首を傾ければ、噴水のクリスタルが宙に弧を描く、その輝きに釘付けになる。玉硝子のように降ってくるその向こうには、小さな花々が、濃い緑に負けることなく、鮮やかな彩りを散りばめている。
 先客は、少なくない。
 きっと、癒しを求めてここを目指して歩いてきたという人たちが、ベンチで足を組んでいる。ママ友か、ズボンにTシャツ姿の若い女性二人は、乳母車に乗った赤ちゃんに視線を落とし、これまたクルクルとよく動く、二つ三つの子をあやしながら話し込んでいる。デンとした腰を落ち着ける老人二人は、噴水の踊りを目で追いながらも、なにやらのことに熱弁を振るっている。結婚式か記念日か、小さい頃に夢見たようなレースフリフリのまっ白いドレスを着た少女が、母親に、お人形のように脇を抱えられながらベンチに座らせて貰っており、…ダイジョブかちゃんとそこキレイだろうか、拭いてからの方が良くないか、と、お節介にも気にしてしまう。
 おぉ、とこの中で自分が「異なる」と思う点とは、直射日光に対する恐れの度合いだ。みんな体から顔から、陽を浴びることに躊躇はなく、位置を少しズラせば陰に収まるであろうその、ちょっとした動作も無い。「シミ・そばかす」の心配ってしないのだろうか、若い女性もお構いナシにその白い肌を晒しており、完全に日陰となったベンチは、特に競争力が高いこともないようだ。木立の中で肌を輝かせた姿はいかにも健康的に映り、対して敢えて日陰に収まっている自分とはなんだかジメっぽく、じゃあ、とこちらも日向へと持って行かれそうになるが、…いや、でもやっぱり暑いわ。みんな、暑くないのだろうか。
 排気ガスが囲む道路のど真ん中、なんてことはすっかり頭にない(まぁそんなに交通量もないけれど)。空に顔を向け、あくびのような深呼吸を幾つもしながら、背もたれにズルズルもたれかかる…のはシャツが汚れんかと気になるからやらないが、快適。気持ちイイ…。グンと背伸びをしたり、手を空にパーと開いて目を閉じる。
 ――三人の兵士がいることは、気付いていた。
 警備の為、という風ではない。ベンチの一つに、二人はそれぞれ前にかがむよう、両手を前に組んで座っており、一人は背もたれに片腕を置いて寄りかかり、足を組んでいる。やはり噴水に視線を置いては、ポツリ、ポツリ…と、途切れがちに何かを話しているが、黙りこくってボウッとしている時間の方が長い。ただ寛いでいるのだ。
 特に、誰も気にする風ではない。兵士もまた自然に、この場に紛れ込んでいるのである。 

 戦後に生まれ、「戦争」からも基地からも遠い日常を生きてきた私にとって、迷彩服を着た「兵士」とはイメージでしかない。…ってもちろん、戦争に出向く人たちが朗らかに笑顔を振り撒くわけなかろうが、手をオデコの前で斜めにシャキンと構えて行進したり、銃を手に、ギラ付いた目で警備に立ち、時に任務を振りかざして一般市民を威圧しないとも限らない、兵士とはおっかないもの――張り詰めた雰囲気を漂わせる「別次元」に生きる存在に思っていた。
 これまで国境を幾つも越えてきたが、たいていそこらに立っている軍人らしき警備の人間にはビビるし、初めてここに来た五年前もまた、ただ向かいの通りに迷彩服を一人見かけただけでギクリとし、腹に巻いたパスポートの感触を確かめ、ビザも問題なかったはずだと背中を固くしたものである。なにかイチャモンつけられ、しょっぴいてかれやしないか――が、ここで町をウロウロしていれば、兵士を見かけることなど実にどうということもない、日常茶飯だと悟るのにそれほど時間はかからなかった。
 任務中か、それとも何かの用事に兵舎を抜け出したついでなのか知らないが、たいていすれ違うその顔は、「さぁ帰ろ」と塾を終えた少年のようにホクホクしており、二人並んで背中をたたきながら談笑していたりする。鋭い眼光…からは程遠い、ピリピリした雰囲気も全くなく、ただボウッとした目で地面をなぞり、考え事しながら歩いています、というのが分かり易い青年。バスの中で「やぁ、奇遇だねぇ」と、Tシャツ姿のデップリおじさんが手を差し出したのは、今しがた乗り込んできた、迷彩服のこれまたデップリおじさんであり、お互いクシャっと顔にシワを寄せて握手を交わす。「どこに行くの?」と問うて「釣りだよ」と答えておかしくない、和やかな空気で二人、仲良く並んで座っていた。
 単に、「迷彩服」であるだけだ。兵士も人間。そりゃあ、いつもいつもシャキンと敬礼したり、行列を組んで歩いたりしているわけではなかろう、なんてことを思いやる余裕さえある、「フツウの姿」がそこここに。
「うちのダンナは兵士」などと聞くと、なんと言ったらいいのだろうかと、途端にモヤっと陰がさし、口籠ってしまいそうになるけれども、それは改まって告白するようなことでもないのだろう。「アラ奥さん、うちもなのよぉ」と、玄関先の井戸端会議で「私の息子が来年受験だ」の次に話題に上るような。
「兵士」とは、身近な存在なのだ。
 壁を感じることない、人間的な彼らの表情に微笑ましくもなり、ホッとする。だがホッとすればまた逆に、迷彩服が浮上してきてなにやら、違和感とも言うべきか、ちぐはぐとしたものが胸に残ってスッキリはしない。そりゃ私が、お幸せな環境にいたからでしょう、という言い方で済ますことができるのだろうか。
 兵士が「身近」にならざるを得ない、その存在が必要とされる世界である。過去――そして現在となってもまだ、争いの可能性捨てきれない世界である、ということだ。
 五年前のふとした場面だが、今もよく覚えている。
 ステパナケルト近郊の町「シューシ」へ行こうと、バスターミナルでバスに迷っていた私を「こっちだよ」と案内してくれたのは、迷彩服姿の気のよさそうなおじさん――がバンを指し示す手の、その親指は赤黒く膨れていた。気にも留めていない風であったから、負傷した時とはそれよりも随分前のことだったのか。
 

廃墟の町を訪ねる

 

 五年前、短い滞在期間ながらも、ステパナケルトから少々移動を試みていた。といってもバスで日帰りの小旅行である。
 バス会社が軒を連ねている、アルメニアのイェレバンほどの規模はないが(といってもこちらも知れたものだが)、さすが首都とされるだけあって、バスターミナルは市場に次いで賑わう場所である。
 砂丘色の、一つ一つに微妙に陰影ある石レンガで積み上げられた、およそバスオフィスとは思えない重厚なる建築物は、かつては要塞だったのではないか。…なんて、動きもしない単なる壁をまじまじと見上げるなどしているのは外国人の私ぐらいなもんだ。仰々しいアーチ型の門をくぐると、中堅スーパーの駐車場程度だろうか、敷地内には朝の七時前から早々、人々が集っていた。車はいつもと変わりなく排気ガスを吹いて走り出し、人々はただ前を向き、宙の中で思いに耽るかしながら、じっと立ち、座り、ぶらぶらと歩いている。
 せっかくカラバフまでやって来たのだから、ほかの町にも足を伸ばしてみたい。ビザが発給される際、ハンコを押してくれるエライおばさんは、訪問予定地として「ステパナケルト」とだけ書いていた私の申請書を見て、「ほかの町には行きたくないの?」――行けばいいのに、というような言い方さえしたのだ。ならば手持ちのガイドブックに、行き方が記載された町へ。

「シューシ」という町は、バスターミナルから車で二十分程というアクセスの容易な場所であり、古くはこの地方の首都として栄えた町であるという。
 とはいえ、だ。「小旅行にうってつけ」などという記述などなく、それどころか、とても「旅行」という字を充てられるようなことは書かれていない。
「廃棄の町」。――もちろん、それは戦争による。
 ソ連時代、シューシの人口はアゼルバイジャン人(アゼリー人)の割合が多かったが、ソ連崩壊の際、1990年代から再燃した両民族間の戦争のなかで、アルメニア人勢力が町を占領し、その大部分を破壊した。荒廃し無人となった町に、戦争で生じたアルメニア人難民が住みついたが、現在に至るまで、あらゆる場所が当時の痛々しさを残したままであるという。
 人は、そこに住み続けている。廃墟は、イコール「無人」というわけではない――単語は右から左にスルっと通り過ぎるが、その状態がいかなるものか、全くピンとこない。それは一体どのような状態を言うのか。単なる旅人が行けるような状態ではないのではないか――とはいえ本には堂々行き方が紹介されている、というのが奇妙に思えた。地図にはバス停のマークなんて書き込んであるし、さらには「食料品店」さえ載っている。
 …想像できない。
 興味、――というと不謹慎かもしれないが、よくわからないからこそ「行ってみよう」という気にもなった。
 不安がないわけではないが、そもそも行き方が乗っているのだから…と、躊躇はそう感じなかった。「廃墟」なる中でも生活がある、という状況とは果たして。単なる紙でしかないが、かくも人を心強くさせる「地図」とはなんと不思議なモンだろうか。 

 石畳の道、その隙間を苔のような雑草が這い、どこからか溢れてきた水がその隙間を縫うようチョロチョロ可愛げに流れ落ちてゆく。濡れた緑が陽の光を受けて瞬く、その輝き――の前に、人が残したものが傷をさらし、時間を止めたように白目をむいて立ち尽くしている。
 ――バンから降りて、集落の只中と思われる小道を進んでいった。
路の脇に立つ家々は、既にその役割を果たしていない。崩れたまま放置され、ポカンと口を開けたようなかつての窓は、ブラックホールみたいに真っ黒く、何ものをも守ってはいない。
 一部が剥ぎ取られたように不自然に欠け、鉄骨がむき出しになっている壁。焼け焦げた跡のこびりついたコンクリートの建物は、アパートだったのだろうか。屋根がなくなり、単なる石壁となっているかつての屋内に、日の光は穏やかに降り注ぎ、ゆさゆさと背の高い雑草がのんびりと茂っている。 
向こうには、頂上付近の骨組みをさらけ出した、天に延びるモスクの尖塔が、さえぎりも無く視界に入る――
 ……これが、「廃墟」か。
 かつては「生活」があったはずの場所を確かに歩いているというのに、もはや遺跡のように静まりかえり、風に吹かれて葉の擦れる音しか響かない中では、人の息遣いが、ここで無数に生まれたであろう悲しみが想像できない。
 そんななか時折、思い出したかのように「人」とすれ違うのだ。石につまずいて転ばないようにか、こちらに顔を向けることもなくただ下を向き、スタスタと歩いてゆくのは、十五、六の少年。何かビニール袋を抱えているその姿は、傍目には文房具屋にでも行って来たように颯爽だ。
 無人の町ではない、ということを自分に言い聞かせる。そもそも、ステパナケルトからのバスの往来だって、頻繁に(一時間に一本のペース)あるのだ。
 だがこの世界の一体どこに、人が住む気配があるのだろうと疑問ながらに歩き進めていくと、洗濯物が舞っているアパートも確かにあることはあった。が、そのアパートも、よく見れば、人の生活があるのは二階の一部のみのようで、一階はドアも窓も、口を開けっ広げた「がらんどう」であったりする。つまり、使えるところだけ使っている、という状態だ。いったい、電気やガス、水道といったライフラインは、どの程度通っているのか。
 この景色の中を日常にして生きる人がいる。
 
 ――五年後の2013年、果たして状況は変わったのだろうかと、再び訪ねてみた。
「工事中」と囲まれている現場があり、二三、新しい建物が立っているのを見つけた。これから復興へと本格的に着手し始める兆しを感じはしたものの、家屋の崩れた跡など、大半が「相変わらず」な印象だった。
 そしてこの時は滞在期間に余裕があることもあり、北部の町「マルタケルト」を初めて訪ねてみた。かの地でもまた、人々の日常生活の隣には廃墟、という光景があり、それらはあたりまえのように「共存」していた。活きた生活の光景の中に、戦争の跡が――途絶えた光景がむき出しに、なんら躊躇なく混ざり込んでいた。 

「アルメニア人が多数を占めていた」とされるカラバフが、ソ連時代、なぜ「アゼルバイジャン」と決定されたのだろうか。
――というと、ロシア革命後の1921年、領土区画を決定する際にスターリンをはじめとした党中央委員会によって、カラバフをアルメニア・ソビエト社会主義共和国領とすることは半ば決まりかかっていたのだが、結果は急展開してアゼルバイジャン領となった。これは石油資源を持つアゼルバイジャンの猛反対があり、また民族同士の反目感情を植えつけることで、中央への反抗を逸らす為でもあったと言われている。
 この時の決定によって、二つの民族は昔からのいがみ合いに終結をみたどころか、その憎しみを再燃させる「根っこ」を温存することとなる。カラバフにおいては、アルメニア語をはじめ、アルメニアの歴史や文化などに関する一切の教育が禁止された。
 言葉は自分自身を発する手段でもある。その弾圧は即ち自分が生きてきたことに対する否定でもあり、抑圧は、のちに必ず爆発しないではいられない帰結を伴う。
 1980年代のゴルバチョフ時代、ソ連の一党独裁体制から民主的な体制へと改革するペレストロイカ、そして「情報公開」と訳されるグラスノチ政策がすすめられた頃から、強いられてきた状態の維持が限界点まで達したのか、アルメニア人による、カラバフの「アルメニアへの返還」運動や抗議活動はいよいよ高まった。
「アルメニア人」「アゼルバイジャン人(アゼリー人)」と一括りに、さも全体全員についてを述べているかのようではあるが、とはいえ大規模な民族闘争が起こる前は、それは「たまたま」生まれがそうあった、という問題であり、個人レベルではアゼル人・アルメニア人関係なく「お隣さん」としてうまく共生していたという話はそこかしこにある。しかし、やがて各地で高まってゆく民族感情は、そういった人々をソッとしておくことなく巻き込んでゆき、平穏だった地を殺戮の場へと変えた。捻じれた国境線は、あまりに大きな捻じれを引き起こした。
 
 占領と、奪還。その戦いに晒された跡を、まるで石ころをよけて歩くかのように、人々は暮らしている。いま、その傷の前にいちいちと足を止め、見上げているのは私ぐらいなものだ。
 もちろん、戦争中そして戦後まもなくは瓦礫が足の踏み場も無いほどであったろうし、それに比べれば随分と片付いた現在ではあるのだろう。道があり、人や車が通ることだってできる。家々の復旧は世帯の経済的なことを含め諸事情によって早まったり後回しになったりするのだろうが、少なくとも「そのまま」というわけではなく、歩みを進めてきた今がある。

 地方の町からステパナケルトへと戻る一日数本のバス、そのうちの一便に乗り込むと、毎度、結構席は埋まっていた。迷彩服の兵士もポツポツと混じっているが、ほぼ一般の住民である。勤め帰りのような顔。お使いから帰るような顔。散歩のような顔…。特に緊張の面持ちもなく、日常を抱えた様々な顔が揃うのを見ると、歩いていた処とはまるで「普通の町」であり、あの光景とは、もしかして非常に限られた場所だったのか、自分ひとりが不思議な世界に迷い込んでいたのか、という気になってくる。バスの乗車の際の、警察による単なるパスポートチェックにビビる私の方が、よっぽど顔がこわばっている。彼らは、いつものように移動しているだけなのだ。
 発車すると、多くの人が首を少々回し、窓の外へ向けている。或いは、前の席の背もたれに取り付けられたネジや取っ手を、今日のオカズはナンにしようか…と、心ここにあらずな感じで見つめているのか。
 ……空ってこんなに近かったろうか。
 こげ茶色の大地に、干草色の雑草が所々波打っている。そんな中、気まぐれのようにポツポツと、背の低い、緑の葉をつけた木が立ち――まばらに砕け散った石レンガが、まるで大地に最初からあったかのように、角を落とし埋もれている。
 もとは「建物」として空間を囲んでいた石壁が、子供がおもちゃのブロックを蹴っ飛ばしたかのように崩れかけ、そのままじっと息を止めている。
遺跡ではない。何百年も何千年もかけた「風化」ではない。これは、人によってもたらされた破壊だ。破壊された集落の跡が、そこに。向こうにも。そして、草原のように、ずっと向こうにも。
 ――なんという、広大な大地だろう。なんと向こうまで見渡せることだろう。
 それは本当に「石」でしかないというように、私の目はそれらを筒と抜け、その向こう・奥の奥にたたずむ山々、そして雲たちこめる空の広がる先を映し出している。たとえ「集落」が生きていたとしても、視界に入る空間の奥行というものは変わらないはずだ。が、――きっともっと、山々は遠い、別次元の存在に映り、空はもっともっと果てしなく感じたのではないか。
 人がいなくなった大地というのは、こんなにも「映るってくる」のか。
 自然のなか、人が住めるようにと開拓された土地に、人間の跡が「無い」。そこに造り上げたはずのものがすっぽりと抜け落ち、遮りも無くいやによく見通せる向こうの山々とは、空とは、なんと肌寒く映ることだろう。なんと「不自然」に思えることだろう。
 まるで遠い昔の遺跡のように、人間の痕跡が野ざらしになった中を歩いていると、否応なく気付かされたのは強烈なエネルギーに溢れ生命を輝かせる、緑。植物をはじめ、人以外の、自然に生きる生命たち。
 木々は立派に葉を茂らせ、雑草はピンと腕を広げて風にサワサワと泳ぐ。虫の羽音が、その生命を知らせる。鳥が鳴き、羽ばたいた空気の振動が、はっきりと届いてくる。燃えるような真っ赤なけしの花が、名も知らない花の、小さくも強烈な黄色と競い合うように、その存在を緑の中で浮き上がらせている。
 人が関与しようがしまいが我関せずと、彼らは自身の存在を伸びやかに謳歌しているように映った。ただ、人間だけがもういない、というだけなのだ。
屋根を失った壁のてっぺんからは、儚げな白い花が天に向かい、その可憐さを見せつける。
崩れた石レンガは、あかたも最初からその姿でこの世にあったかのごとくであり、そこに咲くのは白い椿の花。陰のある背景に、そのまっさらな白が映え、なんと美しいことだろう。
 ――「人間」という面影は、今を生きる生命たちの前では無に等しかった。

  「じゃあね」と笑顔で、偶然同じバスに居合わせたらしい知り合いに別れを告げたあと、迷彩服の兵士がひとり、バスを降りた。いったいどこに行き場が存在するのか想像も湧かない、枯草のそよぐ荒涼とした色の中、その姿を小さくしてゆくのが窓に映る。また、間を置いてひとり、またひとり、と、ポロポロと降りてゆく兵士たち。どこかに基地があるのだろうか。
 やがて、山あいに町の遠景が映るようになる。――ステパナケルトが、近づく。
 家の傍に寄り添うのは、庭木、植木鉢に入った植物。整列された花々。人の手の匂い染みつく植物に、穏やかな、優しいものを感じ取る。
 なんと、華やかな町であることだろう。ステパナケルトとは――。 

移住地・ステパナケルト 

 

 アンさんは、父親がマルトゥーニ出身であると言っていた。
地図を開いてみれば、マルタケルトと同じくまさにアゼルバイジャンとの国境辺りだ。そして彼女自身の生まれはンヌンヌイギ。…言ってて喉が詰まりそうな地名だが、外国人向けの大雑把な地図では、その場所を把握するのは無理。
 ビッグ・ご飯さんは、ステパナケルト生まれ。両親はシューシ近郊の出身。父親は亡くなり、母親はこの町にいるという。
 ミニ・ご飯さんは、私も訪れたマルタケルト出身。
「あぁ、そうなんですか」と頷くしかないけれども、ほぼどこも、戦火を避けられなかった場所である。マルトゥーニなど行ったことはないが、国境地域であることからして推して知るべし。
「シューシ」と聞いて、即浮かんでくるあの廃墟群の光景に、両親の生家はどうなったのか。お父さんが亡くなったのは戦争のせいなんじゃないか――という言葉は喉まであるけれども、それをオモテに取り出す勇気がない。
 マルタケルトへ、ミニ・ご飯さんは「戻るよ、たまにね」と、言った。そこで暮らす両親のもとへか、祖父母・親戚に会いになのか。故郷についてのよもやま話を聞きたい気もするけれども、果たしてキャピキャピと盛り上がってもいいものなのだろうか。ミニ・ご飯さんは、故郷のことをどう思っているのだろう――だが、踏み出せない。喉から出かかるも、やはり「へぇ…」という反応だけで、終わってしまった。
彼女もまた帰省の際は、バスの道中にあった乗客たちのように、何を思っているのか推し量れない、一本の線を空中に流すようなあの静かな目で、車窓の向こうを眺めるのだろうか。
 ステパナケルトとは、仕事と生活を求め、カラバフの各地から人が集まってくる土地でもあるのだろう。辿りついた安住の地――この地ももちろん戦禍にあったが、「首都」としてきっと、どの町よりも復興が進んでいる…。
 魔法使い・エニさんは、生まれも育ちもステパナケルトだという。
 彼女らと私の会話において、アルメニア語でもロシア語でも意思疎通がうまい具合に進まず、残る手段はジェスチャーかイラストでも描くか…となった時に、「それを英語で言うと…」と、ヒョっと助け舟を出してくれるのがエニさんである。うーん、と、記憶の縁から単語を取り出す、という風で流暢にというわけではないが(それはワタシもだ)、英語教育が広まりを見せている現在ならばまだしも、学生時代はもちろん旧ソ連時代の、バリバリのロシア語世代といえる齢六十(2013年時点)である。どういうことだろうか。何か、深刻な理由でも…と、戦争中は英語圏にやむを得ず避難したとか、英語に慣れざるを得ない経験があるのだろうか。思いきって訊いてみると、「外国語を勉強するのが好きなの」。
 ――なんだ、と、拍子抜けしつつも若者の鏡のようなことを仰ることに敬服、その勢いで、私という考えナシはうっかりと、これまたアホなことを言ってしまった。
「じゃあ、アゼル語も?」
…なんて、冷静になってみれば、ンなワケ無いだろう。だがエニさんとは話の最中で、「『いくらですか』はロシア語ではこう、アルメニア語ならば…」などと、ときおり突発的に「言語講座」へと流れたりもするのだが、その時に「アゼル語では…」というのも特に躊躇など見せることなくスラッと口に出してくるのである。ドイツ人の「それってアイラン?」ではないけれども、「アゼルバイジャン」――それはタブーに他ならず、こちらとしては決してウッカリ口から漏らすことならじと心していた名詞であったのだが、そんなのは私ひとりか。エニさんはみんなに聞こえないようにも何も無く、バンバンとお構いナシに言ってのけていた。あまりにも何気ないので、私も少しずつ、緊張感の縄を緩めていたのだ。
「勉強なんて。だって、カラバフは『アゼルバイジャン』だったんだもの。」
 ――あぁ。無知をさらけ出してしまったと、顔から火が出る思いだった。ほんっと呑気な観光客である。「この子、何にも、なーんにも知らないのかしら?」と、呆れられただろう。……って無知なのはホントであるが、それをわざわざ自分からオモテに印象付けてしまった。
「アルメニアの占領地」という言葉だけが立ち、それが意味することが、自分の中で薄くなっていた。当たり前のようにあるアルメニア語の表記、言葉に触れるに連れて、停戦後に訪れた余所者は「その影」を忘れそうになるけれども、そう、ここは「アゼルバイジャン」だったのであり、国際的にはいまもそうなのだ。アゼル語が話せても、なんら不思議なことはない。
 とはいえ、「かつて」それを話すのは、アゼル人と会話する時のみ、或いは公の場所でのみ、だったのか。どのくらいの割合で――今、彼女らの会話では、彩りを添えるかのように「ロシア語」が自然と紛れ込んでいるけれども、そのように家庭でも何気に話されるものだったのか。
 アゼル人の「知り合い」は、どれくらいいたのか。「友人」は、いたのだろうか――
 アゼルバイジャン時代と、未承認ながらアルメニアの保護下となった現在。ずっとこの町に身を置いてきたエニさんは、周囲に起こった変化をどう見つめてきたのだろう。
 英語のおかげで意思疎通が比較的容易なエニさんだから、少々込み入ったことを「訊く」としたらこの人だったろうとは、いまならば、思う。いや、カラバフに行く前から、「かつて」について知りたいならば、やはり現地の人たちに直接訊けばいい、という思いはあった。ふとした会話の中に、そのチャンスはいつかあるだろう、と。
「日本には、お掃除ロボットがあるのよね?テレビでみたわ。」「日本で『お茶』は、グリーンティーでしょう?」――などと、作業の合間に彼女から話しかけてくれる内容は、日本、そして外国への興味に満ちたものが多いから、私もまたすっかりとリラックスしたその同じ調子で――というわけでもなく多少は「おそるおそる」ではあったのだけれども、それでも『もう』大丈夫だろうかな、と訊いてみたのである。それでも自分としては、遠回しにしたつもりで。
 ここで生まれ、住んで六十年だと聞いた後、「家族は無事だったのですか?」と。
――その一瞬、見た事のないような影が、エニさんの表情を覆ったと思う。
 私と彼女だけの会話だった。他のメンバーはボールを持ったり、オーブンを開いたりの最中であり、ミキサーの音がいやに明るく耳に響き、ヘラを手に持ちかえる音とか、「あれ取って、」と呼びかける声などが活き活きと飛び交うなか、エニさんの表情が止まり、その輪郭だけがこの空間の中に凍りつき、沈みこんだようだった。
 私は狼狽えた。普段からは全く想像できない、見たこともない暗い空気が、彼女全体を覆ったのだ。
だがそれは、ほんの数秒だったのかもしれない。
「大丈夫。」
と、頷いて、私の問いに対する答えを出したのだ。
 大丈夫――じゃあないんじゃないか、とは、思った。思ったけれども、もはやそれ以上は訊けなかった。

 いくら気軽な雰囲気になっても、気軽に流せない事実が確かにある。やはり考え無し、馬鹿がつく直球なワタシ…、と自己嫌悪で沸騰し後悔に染まるが、だからといってこれから先、この反省を踏まえて言い方をどうにかこうにか変えて出直すか、といえば――いや、やっぱり二の足を踏むだろう。戦争のことについて訊こう、なんて。
「タブー」は既に外されたのではないか、とおそるおそるタッチしてみれば、実はものすごい地雷を踏んでいる可能性がある。どんなに気を遣い、注意深く、慎重に慎重を重ねたとしても、そのポイントとはおそらく、悲劇を経験していない私にとっては思いがけない場所に潜んでいるのかもしれない。当時の恐怖と悲しみを彼らの中に呼び戻し、さらに深く掘ってしまうとも限らない。
 彼らの苦悩を目の当たりにして、訊かなきゃよかったと悔やみ、この先、会うことを躊躇するようになってしまうのが怖い。

 アルメニア人は、オスマン帝国による虐殺・迫害をきっかけにして、多くの人が国内から逃れた離散民族(ディアスボラ)として知られている。アルメニア人は古来より商工業・芸術に長けているといわれているが、実際に海外で成功した人も多く、アメリカやフランスなどでは財界・政界にも大きな影響力を持ち、ネットワークも強い。
 一方で、資源がなく、特別な産業も持たない本国・アルメニアにおいては高い失業率が続いて人口流出が止まらない状況にあり、経済は海外在住のディアスポラの支援によって支えられているという。カラバフの復興もまた、在外アルメニア人による寄付・投資によってまかなわれ、それは本国への投資をも上回る、ということだ。
 カラバフの首都・ステパナケルトの町の整いようはその甲斐あってのことか、しっかり舗装されたメインロードがあり、スーパーマーケットをはじめ、ガラス越しに、服や靴、化粧品を並べる店が交替に道路を彩る。緑揺れ、花壇に赤い花の映える公園では噴水があり、夏の日差しにきらめきを放つ水しぶきと少年は戯れ、大人たちはベンチに腰を下ろしてそれを見守り、憩う。
 市場では彩りよく積まれる野菜や、生きた鶏、果物、チーズや色の異なる保存食用の瓶等々、数多のものが所狭しと並び、お客を呼ぶ声が賑やかに飛び交う。串焼き屋のオジさんたちが、夕暮れのなかでゲームに没頭する通りがあり、買い物袋をぶら下げた人々は足を止め、その様子を窺う。
 それぞれの日常の生活が、ゆらゆら、穏やかに漂っている。
 平和だ…。
 目に映るものだけをざっと流し見ていれば、あたかもここはずっとこうであったかのようだ。私の生活してきた世界と同じであるような幻想――「戦争の当事者」であったのは遠い遠い昔であったか――に、囚われる。シューシやマルタケルトを思えば、ステパナケルトの放つ明るさには、やはりホッとしないではいられない。
 だが、明るくなった「気がする」ステパナケルトの印象もまた、メイン通りを流し見てのことにすぎない。
 随所に残る、建物の傷。ふと立ち止まれば、洗濯物が窓から舞うアパートの壁には銃弾の跡が目に留まり、路地の奥へと入り込んでゆけば、爛れた皮膚のように表面が剥がれたままの建物が珍しくない。上の階には生活が収まるものの、下の階は、ガラスのない「がらんどう」――黒い口を開いているのが数部屋並ぶ。シューシやマルタケルトと変わらない光景が点在している。

 市場近くの路地に構える野菜売りのおじさんには、片腕が無かった。
「安いけど…。」下からひっくり返してみてみても、見事にキズモノばかりに選別されていたトマトは「熟れ」を通り越してぐっちゅぐちゅに傷んでおり、今日これからすぐに煮込むならばいいのだろうが、サラダとして生で食うにはちょっとなぁ…。まぁ、だから安いんだろうけれど。
 吟味しまくって、気を持たせておいて悪いケド、と、その場を離れようとふとおじさんを見た時に、気が付いた。半袖の先がないことに。
 ……一つぐらいは。
 なんて気が起こったが、そのことに嫌悪感が湧いた。欲してないのに無理矢理買おうとする自分とは、「ナニサマ」だろうか。憐れみで買う、のか。おじさんは「どうする?」(買う?)とこちらを向いたけれども、心に靄を生んだまま、結局「どうも」と口をモゴモゴさせて、気まずいものを感じながら背を向けた。
 
 ケーキ屋にいる時、お得意さんだろうか、店に「やぁ」と言いながら入ってきたおじさんの袖は、キッチリと短く折りたたまれていた。…そうすると、ピラピラしなくていいからか。ナルホド、などと目を見張るけれども、見張っちゃダメ自然に自然に…などと心掛けてしまう。トマトのおじさんはどうだったっけ。突然に気が付いて目を背けてしまったが、もしかすると袖をああいう風にしていたかもしれない…と、せめてその後ろ姿をジッと見つめてしまう。だが、アリーナさんたちはいつものように、注文通りイェレバンスキ等数種の菓子を袋に詰め、お金を受け取って見送るだけ。一見、特別な反応はない。
 
 片腕や指のない人。片足のない人。バスターミナルで『シューシに行きたいんだって』と導いてくれたあの兵士のように、赤黒い腫れを皮膚に刻み込んでいる人。
 シャツの袖を閉じた、腕のない人。松葉杖を脇に挟み、片足で立つ人。
 ここに滞在していて、何かを抱える人が珍しくないと気付くのにそれほど時間はかからない。だがその背筋はピンとしていて、まるで気にかけないが如くである姿を少なからず目にした。
 不自由となった体を路上に横たえて缶を差し出す、いわゆる「物乞い」にある人の姿をいろんな国で見てきたが、それが無いとは言わないまでも、ここでは非常に稀である。体に障害を持つ人々も、健常者の中に混じって仕事に就き、生活を営んでいるのが当たり前に映るのだ。
 そう、当たり前なのである。
 本人にとっては勿論、「当たり前」などといわれる筋合いは無く、身体的に障害のない場合と「変わらず生きる」そのエネルギーと苦労は並々ならぬものだろう。だがそれが「当たり前」である世界――もはやどうにもできないものを抱えて生きる人たちの、なんと多いことか。
ソレを前に、ただ通り過ぎるだけでしかない私は、好き勝手に感じているのだ。ここで胸を張って生きている、彼らの凛とした「誇り」とでもいうものを。
そして教えられるようである。ナニを抱えていても、同じ人間だ。戦禍の中で生き延びることができた、同じ人間――それだけで、私たちは通じることの出来る「十分な理由」であることを。
 ここにいて、私は、この地に「紛れ込めている」気がすることが多々あった。人々と言葉を交わせば交わすほど、その感は強まってゆく。通じ合える。自分のいったいどこに、ここの人たちと異なる部分があるというのか――日本人もアルメニア人も、カラバフのアルメニア人も、変わらんよねぇ――と。
 なぜシューシへ、そしてマルタケルトへ行こうとしたのか――は、もちろんガイドブックに記述があったから。せっかく取ったビザを生かしたい。行けるなら、少しでも多くの場所に足を伸ばしたいという欲があった。ケーキ屋の人たちとも縁深い町であることを知って俄然心強くなり、ますます行く気になった。そして、ずうずうしくも「期待」していた。今よりももう少し、みんなのことが理解できるようになるのかもしれない――。
 だが当然ながら、本当に、「真に」踏み込むことなど出来るわけがないのだ。
 頭に描いていた期待よりもまず最初に目の前にやってくるのは、現実である。シューシの廃墟はピンポイントの悪夢だったのではなく、カラバフの其処彼処で見られ得る光景であり、――この中で生き抜いてきた彼らを、簡単に「理解」したり「共感」するなんてことは無理なんじゃないか。私の生い立ちからは、とても当事者の気持ちに到達し、察するどころかその片鱗にさえ触れることはきっと出来ないという、突き付けられるのはどうやったって無力感しかない。無人となった集落をみて「遺跡のようだ」などと言い流すことの出来ない、かつてそこに存在した人たちの息を生々しく思い返すのが彼らであり、それは、決定的に私が彼らと異なることの一つである。
 傷付いた体を前に、「とはいえ不自由はなさそう」などと、本気で思い込むほど無理矢理なことはない。彼らに凛とした「誇り」を感じる?――それは私が自分の中に生じている靄をなんとかやり過ごそう・丸め込もうと、都合よく勝手に思い込もうしているだけではないのか。
 長い間ここは戦場であり、戦争の記憶とは、遥か遠い中にたたずんでいるものではない。もはや「過去」のことだなどと割り切れない、現在に続く姿がそこここにある。そしていまもって「停」戦中という、危うい現実がある。
 そんななかで私といえば、放ってしまった不用心な言葉に顔色を変えたエニさんのように、傷口を小突き、湛えている悲しみその水面の揺れを垣間見ることでようやく、戦争とは夢まぼろしではなく確かに身近な現実であると気付かされる、というていたらくであり、過去が残したものの大きさの前に手も足も出ずにだんまり、ただ地面を情けなく見つめている。
 迷彩服の兵士とTシャツ姿の男性が談笑し、肩を叩いて分かれてゆくのは実にありがちな姿ではあるけれども、その邪気のない笑顔に「平和」という言葉を取り合わせるには何か切ない戸惑いがある。日常世界のかしこに散らばる「不自然」を感じながらも、それがどのように「まるっきりの平和」と違うのか、私は明確にすることができない。――そもそも「まるっきりの平和」ってなんなのか、そんな世界が存在するのか、という疑問に立ち戻るのを繰り返すだけだ。
 彼らは、私に「共感」を求めたことは無い。ただ、私が勝手に彼らを「知りたい」と願っていたに過ぎないのだが、その、あまりにも独りよがりな好奇心には、自身への敗北感――というより「恥ずかしい」でしかない。

 現実に対する無知も手伝い、「見た目」では分からない傷に、触れていいものかどうかの「一歩手前」の葛藤しか、どうしたって私には出来ないのである。
 それでも、私はまたここへ戻ってこよう、と思わずにはいられないのだ。そうして、彼らと接することで得る喜びに浸り、自身の幸運に酔うことで、「平和」をこの地に投影さえするかもしれない。
 だが、彼らを「理解している」などとゆめゆめ思わないことだ。そう、胆に銘じることだ。平和に「見える」。でも「見えるだけ」なのだ、と心するしかない。
それぞれは、過去が残したものを抱え、これからを生きてゆく。
「生きてゆく。」
その部分だけなのだ、きっと。私が入り込めるのは。

 夕方。
いつものコースをゆけば、予想通り、今日も鼻先にちょいちょいと漂ってくる匂い。
 またやってる…。
 肉の焼ける煙の靄と、夕陽が広げるオレンジ色が混ぜこぜになった中で、地面に箱をひっくり返した上を取り囲んでいるのは、またしてもチェスだか将棋だかの対戦ゲーム。ヒトの鼻をひっつかまえておきながら、白衣姿のおじさんたち数人、今日は早々座り込み、ジッと頭を低く垂れているばかりで「手招き」などする気は全くナシ。肉焼きはやっぱり、担当ひとりに任せっぱなしだ。
お使いらしきビニール袋を片手にぶらさげたまま足を止め、暫く高いところから眺めては去ってゆくのも、通りすがりのこれまたオッサン。
 あちこちの国の路地で見られる、「オッサンの光景」だ。
 たとえ国際ニュースの中で犬猿の中といわれる国同士だろうが、タバコを片手に燻らせながらテーブルに繰り広げられる小さな宇宙に向かう目、そして、熱中した背中が放つ気合とは、どこにおいても共通している。
女性陣は、その不必要に真剣な横顔を見て、「またやってる…」と腕を組み、しょうがないねぇと苦笑いか、或いは溜息をつきながら、アテにならない旦那をよそにせっせと家事や仕事に腰を折る――という姿もまた、おそらく。どっこでも同じことしているよなぁ、という光景に、「人類みな兄弟」と能天気に口走ってしまいそうだ。
 通り沿いの本屋が文房具を店先に並べており、学校帰りらしい少女達が足を止めて、ペンを物色している。私もああいう歳の時分、文房具を揃えるが好きだったなぁ…と通り過ぎながら、ペンケースに入れるも、新品はなるべく使わないようにしていたことを思い出す。道路を挟んだ向こうの通りでは、母親たちが、おしゃべりをしながらゆっくりと歩みを進めている。
 ……ん?なんか匂う。あんなところにあったろうか。新しいケーキの店が、わかりやすく外壁に、豪華なデコレーションケーキの絵を描いて看板としている。ライバルの出現に、アリーナさんもきっとうかうか出来ないな――と思ったが、まぁ、動じないんだろうな。

 そんな場面を通り過ぎたら、今日も、「リカちゃん」のいるあの串焼き屋に顔を出す。
 こんにちは、と店に足を踏み入れると、主人がひとり、木の幹を真横からぶった切ったようなまな板の上で、肉をダンダンと切断していた。斧で。
 …まるで「薪割り」だ。
なるほど骨の付いた肉とは、本来こういう道具があればこそ小さく切断できるのだと納得。普段、私が目にしている肉とは、予め小さくカットされてパックに入ったものであり、それを見て、炒めようか、煮ようかといった「調理」については巡らせるけれども、その前段階の処理について考えることはほぼなかった。なんとなく、機械がチュイーンと、人力要らずでやってしまうのだろうと想像しており、実際そうなのだろうが、本来「動物の肉を切る」というのは大変な力仕事なのである。斧を振り上げる腕を思い描くことも無く、「いつのまにか」に肉を平らげている私は、なんと「物事をすっ飛ばした」世界にいることだろうかと改めて思う。
 既に整然とガラスケースに収まっている肉串も当然、おじさんの腕によって、ダンダンとされたもの。串焼きは確かに「焼くだけじゃん。そして塩コショウだけじゃん」――誰にも出来るじゃん、と言いさえする、非常にシンプルな料理であるが、それでもう充分なのだ、と思った。肉の処理こそがこの料理の腕の見せどころなのであり、ホント「ご苦労様」なのだ。主人にとっては、串に刺したどの塊にも、自身のアイデンティティーが宿っているに違いない。
 今日は、焼きナスか焼きトマトか、と、「焼き」に関しては肉を避けるつもりだったのだが、その渾身の力作・ゲンコツ肉を前にすれば、外側にノペっとくっついた脂が艶良く滴っている焼き上がりが想像されてきて、選ばずしてなんぞや…。
 あ、リカちゃんだ。
 奥の台所らしき部屋に立っている姿が、半分開いた扉から見えた。フライパンを前に、フライ返しをあちこちとさせているのだ。「こんにちは」と言いながらオモテに持ってきたそのフライパンを覗き込むと、鶏の手羽先とトマト、そしてタマネギが湯気を上げている。「炒め煮」か。と、オ、リカちゃんのすぐ足元には「ボク」がまとわりついている。
 野菜に徹しようとしたのは、タンパク質はお惣菜で摂ろうと思っていたからだ。串焼き屋には珍しく、ここでは二、三種類が日々トレイに並んでいる。他の店は男ばっかりで切り盛りしているところが殆どのようだが、ここはリカちゃんも参戦、その一翼として総菜に腕を振るっている。砂ずりの炒め煮等、家で作られるような素朴な料理が並び、外食が稀な地域において、旅人にとってそれらは「家庭の味」として貴重に映る。
 ママのフライパンの動きをじっと見上げているボク――ホントに「家庭の味」作りの最中か。今のソレは売り物ではないのかもしれないな。
 と、その柄を掴んだまま、こちらにやってきた。訊いてみると、値段で答えが返ってくる。じゃあコレにする、と言うと、笑ってウンウンと頷き、おじさんにはやっぱり初志貫徹・「トマトが欲しい」と告げた。
「カッコイイですね勇ましいですね惚れましたワタシ」という勢いでバシバシと「肉切断姿」を撮っておきながら、カチ割ったその肉自体は食わんのか、という展開でちょっとバツが悪い気もしたが、馴染みの客だろう、「アレとコレ」と注文の声が背後からすぐにやってきて、不必要な気遣いであるとすぐに気付く。
 おじさん、忙しいのだ。

(訪問時2008年、2013年)

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過去記事↓

カラバフのケーキ屋さん① ~定番「フワフワ四角ケーキ」
カラバフのケーキ屋さん② ~「ナゴルノ・カラバフ共和国」
カラバフのケーキ屋さん③  ~菓子累々
カラバフのケーキ屋さん④  ~味見天国
カラバフのケーキ屋さん⑤  ~「アルメニア・コーヒー」
カラバフのケーキ屋さん⑥ ~晩飯探訪・ステパナケルト


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