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この世界をノックし続ける方法①
二〇二四年、一月一日 (月)
神社へ⾏っても⼿を合わせてお参りまでしないのは、そこまで信じていないからなのだろう。むしろ、森の中とか、路地裏とか、商店街とか、静まり返った図書館とか博物館の⽅が何かの気配を感じる。顔の表⾯に何かが触れてる気がする。そういうときは、ほとんど何も求めない。
ただ、そこにいれば満⾜する。世界と繋がっている感じがする。
神社にいるときよりも、森の中にいる時の⽅が。
そういったありがたい⼒は、幼い頃両親が伝統⾏事を家で必ずしてくれたからだと思う。兜や雛⼈形を飾る。柚⼦湯に浸かる。節分の⾖まきをするなど。
別に、みんなが神社やお寺に初詣してるからって同じところに初詣に⾏かなくとも、⾃分が最も⼼安らぐところへ⾏けば同じなんじゃないか?
そう思って、今年の元旦は初詣として森へ⾏ってみることにする。
⾃転⾞を借りて三⼗分かけて最寄りの⼀番デカい森へ。
森の中の、道も何もないただの落ち葉だけが落ちているところを歩いていると、⾃分にだけ⾒える道がある。それは、かすかな獣道であったり、なんとなくそっちの⽅へ歩いていきたい⽅だったり。
そのコースが⾒える⽅へ歩いて⾏くと、意外にも遠くから⾒えなかった細い枝で道が塞がれていたりすることがある。
そんなときは、もう⼀度周りをよく⾒て、勘を研ぎ澄ませると、また新たな道が⾒えてくる。
そしてまたそっちの⽅へ歩いて⾏く。 結局、ジグザグに歩いて、多少戻ったとしても、道のりが楽しくなければ⽬的地まで歩いて⾏けない。
たとえ遠回りしても、⽬的地に辿り着けなかったとしても。昔の⽇本⼈は、引っ越し前に何か悪いことが起こったら、⼀度逆⽅向の別の⼟地に引っ越してから、本当の引っ越し先へ⾏ったらしいし。
僕の⼈⽣も、そうして、野⽣の勘を磨いて、うまく流れに乗って⽣きていけたらいいのになあと思う。
僕の場合は、⽬に⾒える道は勘でうまく辿っていけるのに、⼈⽣という道みたいなものは、まだそれよりうまくは辿れない気がする。
⼈⽣における⽬的地、そして⽣きて⾏くことの道すじ。
それらは、リアルに歩くこととは、少し違う。
でも、似てるからまだ希望はある。
* * *
さて、元旦の森はというと、結局、⾵が強くて寒すぎて、なにか森も以前感じた神聖感がなく、ざわざわ騒がしくて落ち着かず、⿐⽔も出てきて10分も滞在できず、温まるためすぐ⾃転⾞に乗って帰ってしまった。
さらに、猛烈な逆⾵の⻑い⻑い河川敷の上で電動⾃転⾞の充電が切れたり、返却場所が⼀杯で返せなかったり…。⾝体はあったまったが、エラい⽬に会った。
帰り道に、お寺の横を通り過ぎたら、⾨前通りは⼈でぎゅうぎゅうと⾏進していた。
*
〜ちょうど一年前のお正月。日記シリーズ〜
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