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この世界をノックし続ける方法②

二〇二四年、一月二日 (火)


昨⽇のリベンジのため、お正⽉2⽇⽬は、
図書館の正⽉イベントとして“福本”という福にまつわるめでたい本が飾られていたので、そこで『⽇本伝統のめでたい柄・写真集』を借りて、家の読書⽤椅⼦でお寺近くの和菓⼦屋のあんだんごを⾷べながら、緑茶を飲んで眺め、⽬から正⽉気分を味わってみようとした。

ついでに他の書架を眺めてみると、別の本がふと気になった。

それは『徒然草つれづれぐさ』だった。

学⽣のときは、意味なんてほとんどわからなかったが、⾃分がエッセイを書いていると、世の中にエッセイはいくらでもあるのに、その中で三⼤随筆に⼊っているのはなぜなんだ??? と思い始めていた。

〜中学⽣でも分かる超訳版〜という副題にも惹かれて借りることにした。

結果–––。もう、めちゃくちゃ⾯⽩かったです。

「あなたもいずれ死んでしまうんだ。それを忘れるな」 当たり前だが、それが切実に何度も繰り返し述べられていた。 そして、偶然かな、僕は一ヶ⽉前に会った別のとある⼈からも、同じことを伝えられていたのだった。

 * * *

タイトル、『僕の死に⽅』
その人が僕にくれた、一冊の本である。


彼⼥は去り際に、
「はい! これあげる!」と⼤声で笑顔で⼿渡して、去っていった。なんだろう…。僕は、僕のエッセイで、僕を僕と⼀⼈称で書く から、エラいもん渡されたな…てゆうかなんでこれ? と正直僕は思いました。

その⼥性は、同じ古本市に出店していた⽅で、病気で喉元を⼀部切除したから、発⾳を聞き取ることに苦労しながら会話していたのだが、逆にその⾟抱強いやりとりで仲良くなったのだった。その本には、彼⼥のつけた付箋がたくさんついていて、それは今思い返すと、彼⼥が療養していたときに読み込んで⼼の⽀えにしていたのだろう。その時に、⾃分が死ぬかもしれないと何度も思ったはずだ。その本のテーマは、限りない命を⼤切に精⼀杯⽣きて。つまり「死を意識しなさい」ということなのだ。

僕は⾃分の死なんてほとんど意識したことがなかった。こうして、思う存分作家活動するために前の会社を辞めたのに、うまくことが進んでいかないのは、これが原因の⼀つなのかもしれない。⼀度よく考えてみる必要がありそうだ。

そうだ、もっと同じようなテーマの本(闘病記・死に瀕したときのノンフィクション)を読んでみよう。そうすれば、⾊んな⼈の最期を再体験できるはずだ。
幸か不幸か、物⼼ついてから親族の死にほとんど⽴ち会ったこともないし、⾝体が健康すぎるのも、考えものなのかもな。

ちなみに福本のめでたい柄については、そこまでめでたいという気持ちにはならなかった。まだ紅⽩幕を⾒ている⽅が、めでたい気持ちになる。感度の問題ではないだろう。なぜなら、アイヌ⺠族の⾐装を⾒てると、怖くなってくる。ネイビー地に、⽩⾊の渦巻きが⼊っている模様だ。ネイビーだけなら何も感じないし、アディダスのマークが⼊ったネイビーのジャージはむしろ好きなのに。
もしかして、僕の祖先が遠い昔、アイヌ⺠族になにかしでかしたのかもしれないな。
位置的にも九州で対局位置だし。


 *








〜ちょうど一年前のお正月。日記シリーズ〜

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