意識高い系パパ(笑)にならないために
こんにちは。現在、2歳男児を育児中の父親です。今年の3〜5月の間、育児休暇を取っておりました。Note初投稿です。父親として悩んだ2年間分の体験を元に考えたことを言葉にしたいと思います。
ただ、僕自身は子育てに答えらしいものは見つけられていませんので、ここに書くことは、子育てハウツーのような結論めいた内容を含むものではありません。 考え、話し合う素材を、いろいろな情報と自分の体験から組み立て、文章にしてNoteに置いていくというイメージです。それでもご興味を持って読んでくださる方がいらっしゃいましたら幸いです。
■子育てで大事なのはママのニコニコ!?
ここ一年、NewsPicksのWEEKLY OCHIAI(メディアアーティスト、落合陽一氏が様々な分野の専門家をゲストに迎え、新しい知見を得る番組)を視聴しています。「教育」の話題が扱われることも多く、「父親をアップデートせよ」という回で、花まる学習会という学習塾を経営されている高濱正伸氏が出演されていました。
花まる学習会は幼稚園年少から小学校6年生までの子どもたちを対象にしており、「メシが食える大人、魅力的な人の育てる」という理念の元数学や国語、野外体験教育を提供する学習塾です。1993年創設、19の都府県に塾を構え、2万人ほどの会員(卒業生含むということだと思います)を抱えており、そこで得た知見を元に、育児における本質というものを語っておられました。(公式HPより)
氏曰く、日本の育児における課題とは、
「訳知り顔で数字や世界を語る一方、“たった一人の妻”をニコニコに出来ない夫」
であるということに、学習塾の現場で気づいたのだそうです。
ママは、我が子のことがいつも心配で、その懇々と泉のように湧き上がる不安を、地域のおばちゃん達“分かり軍団”が時に引き受け、時に労い、「大丈夫、大丈夫」と毎日言い続けてもらってやっと、少しだけ、落ち着ける生き物なのだ、だから、一人で子育てはやってはいけないのだ、と氏は言います。
しかし、核家族化した現代においては、この“分かり軍団”は消滅し、唯一の拠り所である夫は仕事で頭がいっぱい、育児の現実を知らずに理屈をこね、妻のオチの無い話は無意味にしか感じず、理解を示すことはなかなか難しい、、のだそうです。そして、その溜まった不安は、本来大切に育てられなければならない子どもへ向かいます。本当に子どものことを大切に思っているのに、イラ〜っとして、つい余計なことを言ってしまう自分を止められず、寝顔に謝ってる、といった状況になってしまうのだとか。
専業主婦と働く夫、という昭和的核家族を想定しているようにも感じられますが、共働き世帯を前提とした話で、今の子どもたちはこういったママがニコニコでいることが難しい環境で育っており、それは子どもの発育においてあまり良いことではないのだそうです。
(もちろん、夫も家族のために一生懸命働いているのに、子どもが生まれた途端に訳も分からずに怒り散らされ、戸惑うばかりなのだというお話もされていました。核家族という単位で子育てをすること自体が土台無理なのであって、一概に父親のあり方を糾弾するような内容ではなかったことは断っておきたいと思います。)
■「妻のニコニコ」ってなんだろう?
じゃどうすればいいんだろうのか・・・・?という会場の雰囲気に対し、高濱氏はまずこれをやろう、と4つの行動を提示します。
① うなずけ
② まとめるな、「要するに」って言うな
③ 結論を言うな(解決しようとするな?)
④ 妻の幸せを毎朝祈りましょう(ちょっと上級)
①〜③はよく聞く話です。そもそも全く別の生き物で根本的には理解し合えないというところから始めなさい、という文脈です。男女間の脳科学的性差を形容するのによく使われる、「解決脳」と「共感脳」の違いの話ですね。
僕はこの男女の関係性においてよく用いられる「共感」という言葉はあまり好きではありません。「とりあえず『分かるよ』って言っとけばイイんでしょ???」といったような上から目線の考え方に感じてしまうからです。
④ の「祈る」はそれによって何が変わるんだろうか。。。というのが聞いた当時の感想で、総じて具体的にどうすればいいのかは腑に落ちず、それからというもの、「妻のニコニコ」について考えるようになりました。
すぐに思いつくのは、美味しい食事、睡眠、友人や実母とお出かけ、などでした。しかし、基本的に子どもが生まれる前はできていたことで、無くなったものを元に戻しただけに過ぎません。それどころか子どものことが心配で、欲求自体が無い、というあり様です。(以前は食べることが大好きだったのに、今は自分が果たして何を食べたいのかも分からないと言っていました。)
どうにも芯を食った答えが見つからず、ある時、妻に素直に聞くことにしました。妻は逡巡しつつ、一つの些細な出来事の話を例として話してくれました。
「T(息子)が食べ物をこぼして服が汚れて、私がそれを慌てて拭こうとするのよ。で、私からはティッシュ箱が遠くて、あなたからは近い、っていう状況って、まぁあるじゃない?いつもだったら私が立ってサッと取っちゃうか、取ってくれても、欲しいタイミングからは遅れるかなんだけど、いつだったか、欲しいタイミングでティッシュを差し出してくれたことがあったんだけど、覚えてる?
なんか、変に気負って何かしてくれても(押付けがまいから)嬉しくないんだよね。それよりこういう咄嗟の感じの方がいいかな。」
この話を聞いた時いつのことか明確に思い出せました。大げさかもしれませんが、妻の脳と完全に同期したような、不思議な感覚で、とても印象的だったからです。 回路が繋がったというような感じでしょうか。
そして、この脳が同期して自然に相手と同じ状態になる感覚を、本質的な意味での「共感」というのではないか、ということに、思い至りました。
■「共感」について考える
先述の通り、男女間のマジックワードとしての、「『分かる』ってとりあえず言っとけばOKでしょ」みたいな話をメディアなどで時折耳にしますが、少なくとも、私の妻にはほぼ通用しません。(涙)
自分の経験に置き換えて想像はでき、実感はできないまでも理解はできるので、「分かるよ」と言ったりはしますが、返す刀で、「分からないよ」と言われます。おっしゃる通り。開き直る訳では無いですが、正直本当の意味では分かりません。これは当たり前のことなのだと思います。
月に一回やってくる生理の痛みとイライラ、初の出産に臨む不安、出産時の激痛、出産後の疲労、毎晩満足に眠れない苦痛、母乳が詰まった時の痛み、視力が落ちる/髪が抜ける/味覚が変わる/性格も変わる、、、などの自分のからだとこころに起こる様々な変化への戸惑い。
こんなもの、経験した本人以外には絶対に理解できません。
つまり、男女間でよく用いられる「“分かる”的共感」は本来乗り越えられないこの理解の壁の存在に互いに目を瞑り、分かった/分かられたことにして、そこで満足し合う考え方が見え隠れしています。それは、どこか後ろ向きな態度に感じます。
これに対し、僕が感じた相手と同期する感覚は、そういう欺瞞的なものとは明らかに異なるものでした。この違いは「共感する意思の有無の差」であると言えます。
そこで、この「共感」という概念を「意識的共感」と「自発的共感」に分けてみたいと思います。前者は「相手の感情を推し量り、意識して表面的に同調すること」後者は「相手と同じ状態になり、意識せずとも、自発的に同期してしまうこと」という意味合いです。
両者の差は、下記のような形で表現できると思います。
字面を見ても分かる通り、「意識的共感」の方は、なんとも窮屈で疲れそうです。一般論ですが、20〜30代で知り合い、結婚し、そのまま平均寿命まで添い遂げるとすると、ざっと50年以上夫婦として共に暮らすことになります。これは、自分の親や子どもよりも長い時間を、夫婦で共に過ごすということです。この数十年を、窮屈な「意識的共感」のみでやり過ごすというのは非常に厳しいと思います。
逆に、「自発的共感」の方が、そこに至るまでは困難が多そうですが、至ってしまえばある意味“ラク”に生きていく事ができると言えます。であれば、勝手に共感が湧いてくる脳の回路を作ってくれるような環境を模索し、自分の暮らしに実装し、日々メンテナンスしていく方が、余程前向きで精神衛生上、良い暮らし方なのではないかと、僕は考えています。
■「祈り」の正体
高濱氏が示した行動④「妻のために毎朝祈りましょう」の意味とは、
「人間っていうのは毎日念仏のように言葉を唱えれば、刷り込みによって、本当にそう思うようになる。妻がヤカンを触って「アチッ」ってなった時に(横になって)ボーーっとして気づかない夫でも、祈り続ければ、咄嗟に(起き上がって)一言、「だいじょぶ?」という言葉が自然と出てくるようになるもの。」
なのだそうです。まるで迷信のようですが、「妻の状況や声を五感でキャッチして、その信号が脳に到達した時、その刺激が閾値を超えずに消滅する回路」から、「同様の刺激が閾値を超え、状況変化として認識し、それと同時に身体の各部分、声を発する口や、起き上がるための身体中の筋肉に作動せよ、と指示する回路」に変化する、と解釈すれば、実際にそうなるかはともかく、可能性はありそうです。まぁ高濱氏は「祈るくらいの覚悟で暮らしましょう」というくらいの意味で例えただけなようにも思いますが。。。笑
たぶんこの、「祈る」的行為によって体得できるものが、「自発的共感」なのだと思います。実際、ほんとうに「祈る」のはちょっと恥ずかしいので他の方法はないものかと考える日々です。既に何か会得されている方がいらっしゃいましたら、アドバイスコメントなど頂けますと幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。