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最近、人と話す上で特に意識していること。
コミュニケーションを育む上で基本中の基本だけど、私には難しかったことを今回は書いていこうと思う。本当に何を今更!と言われてしまうようなことではあるが、年齢30を手前にしてやっと実行に移せるようになってきた。これ以上後にならなくて良かった。そう思うことでしか、平常を保てないでいる(笑)
最近意識しているのは会話における“間”を楽しむこと。
以前の私にとって会話の中での無言は居心地の悪い地獄の時間であった。
余韻もクソもない。ひたすら間を埋めるのに注力し、人の話なんざ大して聞いちゃいない。
会話を楽しむ余裕がなかった。なんたって会話を続けなくてはならなかったから。
「しなければならない」なんて誰が決めたんだか。自分が勝手に作り出した理想に翻弄され、「無言」は完全に悪者扱いだった。
自分が「間」を毛嫌いしていたからこそ、相手も私と同じように「間」による気まづさを感じてほしく無かった。さらに、私と話すことが相手にとってつまらないものであってはならないと感じていた。
私には大切な集まりがある。
10人ほどの地元メンバーだ。小学校の6年間まるまるひとクラスだったおかげで今でも年に1度は集まる。
元々、定期的に集まってはいたが、結婚、出産、転勤などからその数はぐんと減った。
20年以上になる関係が続いていることの感動とこれから先も続いてほしいという期待から地元メンバーへの愛は計りきれない程大きいものだと自負している。
特別であり、大切にしていきたいと思う気持ちが、幹事として指揮をとる原動力を私に宿す。
幹事な私なんて他のコミュニティーでは顔を出さない部分である。むしろ他ではいるかいないかもわからないような幽霊部員枠なのに。この時ばかりは、慣れないリーダーシップを執る。
みんなも私が思うようにこの集まりが楽しく、特別なものとして感じていてほしい。そう強く思えば思うほど、その場を無理に盛り上げようと立ち回ったり、MCのように話を回したり、 あの大嫌いな「間」が姿を現さないように努めた。
そんなことを続けていたら、いつの日か大好きであったはずの集まりに参加するのが億劫になっていた。無理していると自覚した時にはもう純粋に楽しむことが出来なくなっていたんだろう。
変わったのはほんの少しの「気付き」だった。
気持ちが乗っていないと分かりやすくパワーが出ない。その日は「頑張る」が出来なかった。
それでも地元の集まりはいつもと変わらない。むしろ、いつも聞き役の友人が発言していた、なんだかポジティブな空気感。その時に思った。
「私が無理して頑張らなくても、みんな楽しんでいるんだ。」
むしろ、「私が無理することで、誰かの発言する機会をわざわざ奪っているのかもしれない。」
それって誰も得をしないし、悲しすぎやしないかと。ふとそう思った。
自分が後ろ向きな気持ちのまま参加した会で、まさかこんなに大きな気付きを得るとは思わなかった。誰かが話しているから、誰かは聞いたままで、誰かが黙れば、また誰かが口を開く。「間」は、「話し手の権利切れ」を表し、また別の話し手への権利譲渡へのタイミング。だとしたら、「間」には、なんだか面白いことが始まる可能性が秘められている。かも知れない。
「間」が怖かった私が、「間」を受け入れている。
声が出そうなら飲み込んで、ひと呼吸おこう。そして、君の「声」を期待しよう。
なんだか今日は君の話が聞きたいな。
だってさ、、面白そうなんだもん。