<「上級国民」への異常バッシング、日本で「加害者叩き」がここまで過熱する理由>という記事への私見
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— krist2019 (@krist2019) November 4, 2020
11月4日の上記ツイートに関する記事の私見を述べていく。
〇抜粋1
驚くべきことだが、未成年者の凶悪犯罪である。日本だったら家族の実名・顔出しはゼッタイにありえないし、届く手紙はいやがらせか脅迫であろう。
届く手紙には抗議の内容も多いのではと思う。あとバッシングと批判は分けて考えるべき。
〇抜粋2
しかし、本件に限っていえば、刑事訴訟規則には、逃亡のおそれがなく証拠隠滅のおそれもないような場合、逮捕する必要はないと書いてある。逮捕は明確な人権侵害だから、法は適用の基準を厳格にしているのだ。被告人が事故で骨折し入院した状況下では、逃亡も証拠隠滅も不可能だから、任意捜査が特別扱いとまではいえないだろう。
飯塚幸三事件で問題視されているポイントは、「旧通産省工業技術院の元院長」という経歴や「瑞宝重光章」という勲章持ちといった「事件とは直接かかわりのない事柄」によって、犯罪の容疑がかかっている人が逮捕されるのか否かが決まってしまったのではないかという点である。
「被告人が事故で骨折し入院した状況下では、逃亡も証拠隠滅も不可能」とあるが、飯塚被告は事故を起こした直後に家族に電話をかけている。怪我を負ったのは事実だが、家族とスマホで電話できるくらいには行動可能だったというのもまた事実である。
〇抜粋3
とくにここ20年ぐらいの社会的な格差の拡大によって、ますますこのねたみ意識が肥大化している。「上級国民」という言説がこれほど巷に氾濫したのは、日頃から「身分制」の上下関係に敏感になっていることに加えて、ねたみ意識がマグマにように「世間」の奥底に滞留してきたからである。
上級国民というワードの起源は2015年の佐野研二郎オリンピックロゴ盗用疑惑騒動とされている。そのため、「ここ20年ぐらいの社会的な格差の拡大」というのは、この件に関しては無関係。
〇抜粋4
公判で無罪を主張したことで、被告人は謝罪も反省もない一種のモンスターとみなされた。このことは、きわめて憂慮すべき事態の到来を象徴していると思える。それを一言でいえば、この国では社会が衰退しつつある、ということだ。
いくらなんでも論理展開が飛躍しすぎ。
〇抜粋5
被告人の無罪主張は、ネットやメディアで徹底的に叩かれた。もちろん、これが被告人のたんなる「思い込み」なのか、または「ウソをついている」のか、あるいは実際に車の不具合があったのかは分からない。これは裁判によって確定されるべき事柄である。
「これは裁判によって確定されるべき事柄である」というのは正しいが、既に警察の現場検証で「車の機能検査で異常は見つかっていない」という結論が出ているという事実を踏まえる必要がある。
〇記事の最後の方の記述について
「法のルール」の機能不全とあるが、議会政治の分野では確かに「モリ・カケ・桜」問題や、「検察庁法改正」問題が生じていた。学術会議問題もその一例である。
しかし、この交通事故に関してはそのような機能不全が起こっているわけではない。飯塚被告が無罪を主張出来ている時点で、法廷でのルールが世論によって捻じ曲げられているとは言えない。
〇飯塚幸三被告に関しての私見
元政治家の杉村太蔵氏が「これ少し冷静になって考えなきゃいけないなと思うのは、私たち民主主義の世界に生きていますよと。そういった時に、裁判において被告が自分の正当性を主張するというのは、基本的人権の中で最も尊重されるべき、1丁目1番地ですね。これを否定するというのは、ましてメディアで強くバッシングするというのはちょっと、やっぱり我々冷静にならなきゃいけない・・・推定無罪というこの大原則は、やはりメディアにおいては、きちっと把握、抑えておかなければならないポイントだと思います」と述べていたが、飯塚幸三被告の態度を批判をしている人の大多数は「飯塚幸三被告が無罪主張したこと」を批判しているに過ぎず、「刑事事件一般において被告が無罪主張すること」を批判しているわけではない。
そもそも、裁判で飯塚被告が無罪主張をしたと報じられている時点で、「刑事事件において被告が無罪主張する権利は守られている」といえるため、杉村氏のこの主張に妥当性があるのかは微妙である。
※この記事はnoteで書いた初めての記事です。読みづらかったら申し訳ございません。