「残当」と映画『福田村事件』
最近「残当」というネットスラングを知った。このスラングは「残念だが当然」を略した言葉である。
このスラングを知り、筆者は映画『福田村事件』の或る台詞を思いだした。
映画『福田村事件』でこんなシーンがある。
被差別集落から来た行商人の集団が歩いていると、朝鮮人の女性が朝鮮飴を売ってきた。集団の中には「朝鮮飴たべたい」と言い出す者もいたが、「やめとけ。鮮人が売っとるもんやかし、何が入っとるか分からん」と言い出す者もいた。
しかし、集団のリーダーは朝鮮飴を多く購入した。
たくさん買った理由を訊かれたリーダーは「言われたことあるんじゃ。あいつらが売りよる薬やか、何が入っとるか分からんいうて」と答える。
この台詞は「被差別集落から来た行商人が多くの偏見を受けてきたこと」を示す言葉と捉える者が多いだろう。
だが、この台詞を「残当」と捉える意見も実は成り立りうると筆者は考えている。
朝鮮人の女性が飴を売るシーンの少し前に、集団のリーダーと行商人の子供がライ病(癩病)の患者に効果の乏しい薬を売りつけるシーンがあった。
このように、被差別集落出身の行商人たちは胡散臭い商品を今まで売ってきていた訳で、そうである以上、「あいつらが売りよる薬やか、何が入っとるか分からん」と客側に思われてしまったとしても或る意味では当然のことだと判断することは出来る。
もちろん彼らが社会的に厳しい立場にあり、リーダーが述べていたように「わしらみたいなモンはのお、もっと弱いモンから銭とりあげんと生きて行けんのじゃが」という状況の中で暮らしていたのは言うまでもない。しかし購買客の側からみれば、「この人たちが売っている商品は何が入っているのか分からないよ」という率直な本音が湧くのも自然なことだと考えうる。
つまり人生で一度も胡散臭い商品を売ってこなかった被差別集落出身の行商人たちに対して「エタが売っている商品は何が入っているのか分からないよ」というのは偏見と言い切ることが出来るが、今まで胡散臭い商品を売ってきた被差別集落出身の行商人たちに対して「エタが売っている商品は何が入っているのか分からないよ」というのは完全なる偏見と言い切れるのかという問題があるように思う。
本記事の読者の中には「エタという差別的な表現をしているから偏見と言い切ってよいでしょ」と考える方もいるかもしれない。だが、言葉は時代によって変化するということも踏まえる必要がある。
本映画の監督である森達也氏が執筆した本『放送禁止歌』と重なるようなことだが、現在であれば明確な差別表現とされる言葉が、数十年ほど前や百年ほど前は日常会話で普通に用いられていたというケースは非常に多い。
本映画においても、飴を買う直前のシーンで、リーダーや行商人の集団のメンバーが会話においてエタという単語を自ら用いている。
筆者は例の台詞を「残当」だと断定すべきだとは考えていない。個人的には、この台詞は「被差別集落出身の行商人」の立場に着目するのか購買客の立場に着目するのかによって捉え方が変わってくるものだと感じている。