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若年生アルツハイマー型認知症
皆様、認知症という症状についてはどんな認識をお持ちでしょうか?
私は家族がこの病状になるまで全く興味を持たず、テレビや本の中でのものばかりだと思っていました
しかし、認知症は65歳以上の約16%
80歳以上だと男性が約30%、女性の40%が認知症になると言われています。
自分の家族は大丈夫、そう思っていましたが
私の母は54才で症状を発症させました。
早期の発見に至りましたが、市内では初めての例となりました。
当時の私は関西で結婚をして地元から離れた場所で生活をしていました。
まだ20代の私は稼ぎが良くなく、会社環境も良くなかったために
退職をして転職活動をゆっくり行う予定でした
しかし
その会社では契約社員で雇用されていることを知らされておらず退職金を満足にもらうことができず、転職に焦りを持ちながら生活をしていました。(めちゃくちゃ悔しくて泣きました)
しかし、当時の妻と価値観の違いから生活にズレが生まれている最中のことでした。
実家から
母が料理ができなくなった、ゴミ捨てができず家中がゴミだらけになっている
そんな連絡が私に来るようになり、徐々に、大丈夫なのか、、、と思うようになりました。
頻繁に家にも顔を出すようになり、ゴミを片付け、母とよく話すようになりましたが以前の母とは違い涙を流すようになりました。
「自分が自分じゃなくなるみたい」と公園で言っていたことを昨日のことのように思い出します。
そんな中、家族のことと結婚生活と新しく働き始めた職場でのストレスで
私の心は限界を迎えていきました。
多分このまま離れて暮らしても、心労を重ねてしまうと思い
結婚生活にピリオドをうち、新しい職場にも事情を説明して退職をしました。
その最中、たくさんの傷を心に負いました。
当時の妻には、”自分の母でも面倒を見るのは厳しい”
結婚する前は母が病気がちで負担になる為、結婚に踏み切れずにいた私を励ましてくれた人は
もうそこにはいませんでした。
職場では、”親は自分より早く死ぬから自分の人生設計についてもっと考えた方が良い”と心無いことを言われたり
辞める前はあんなに相談に乗ってくれたのに、結局は労働力が欲しかっただけなのかよ、とか思ったり(私は比較的、仕事は出来るタイプだったと思います)
でも、きっとそうなんですよ
他人からしたら”自分の大切な人じゃない”から親身になれない
何気なく発された言葉で私は何度も傷をつけられ生きました。
実家に帰るか、関西で結婚生活をし今の職場に残るか
すごく悩み、苦しみました
しかし
当時、ラジオを聴くことにハマった時期があり
その時にある人が言った言葉が胸に突き刺さりました。
「たくさんの経験をしてきましたが一番の後悔は親を見捨ててしまったこと」
という言葉を聞き
今、逃げたら一生後悔してしまうし取り返せない選択になると気づき
すぐに行動に移しました。
今、振り返ると英断だったと思います。
(もちろん離婚も退職は私にも原因はあったと思います)
地元に帰り
まず、したことが母を精神科に通わせることでした。
当時は1ミリも認知症の可能性考えてはおらず、鬱病か精神病の類かなぁと思っていました。
実際は鬱病と診断を受け、ストレスから離れて生活をしてくださいと言われてお薬を処方されました。
しばらく母は本人の要望もあり実家である新潟県に帰省することになりました。
初めは1ヶ月と決まっていたのですが、ズルズルと伸び3ヶ月ほど帰省することになりました。
母も家族たちもストレスさえなんとかなれば、元どうりになると思っていました
私の方は母の部屋を片付けながら(この時にもある程度危機感がありました、なぜなら部屋が異常にまで汚れていたから、、)家庭のゴミを一気に片付けたり、家事をするようになりました。
部屋からは机の引き出しからケーキが腐って出てきたり、じゃがいもが発芽していたりと普通ではない光景が広がっていました。
祖母も精神病で家から一歩も出れず、祖父も糖尿持ちなので自分しか動けない状況で
ちなみにこの時は、自分も鬱でしたが動かざるを得ない状況にあり
無理やり体を動かし心を誤魔化しました。
夜は眠ることができず、友人にポケモンを3時くらいまで毎日したりスマホアプリの大富豪を8時間くらいしてましたね〜(今思うと異常でしかないw)
そんな中、母がこちらに戻るとなったので迎えに行くことにしました。
母が実家に帰るとき、私はまだ職場の引き継ぎ作業があり前の職場に遠距離通勤をしているところでした(片道3時間でした)
母は1人で現金を持たずして電車に乗ろうとする、大阪まで乗り継ぎができないなどで会社を抜けバス乗り場まで送り届けた経緯があるため、今回は私が迎えに行くこととなりました。
(本当に嫌で嫌で仕方ありませんでした)
母の実家に着くと自分が離婚をしたこともあってか
居心地がかなり悪く、母を連れてすぐに帰ろうと思い翌日には母の実家を出ました。
帰る前に祖母から
手紙を病院の先生に渡してほしい、と頼まれ
10万円が入った封筒を預かりました。
意味わかんないなぁ、と思いましたが
考える余裕もなかったため、母親を連れ帰路につきました。
母がこちらに戻り、精神科の受診日が近づいていたので
祖母から預かった手紙を主治医の先生に渡し、今日もこれで薬もらって終わりか〜と思っていましたが
状況は急転しました。
母は地元の脳外科医の診察を受け、レントゲンを撮影して
”若年生アルツハイマー型認知症”と診断を受けていたようです。
でも
祖母からはそのような報告は受けてもいないし、鬱病と診察を受けていたのに
なんでなんで?と頭は大混乱とぶつけようのない怒りでいっぱいでした。
実際に主治医の先生にも誤診だ!今までの投薬はなんだったんだ!と
そんな怒りを淡々とぶつけていましたが、今思うとあれが人生で初めて他人にキレたかもしれないです。
10万円を渡されたこともこっちで面倒を見ろってこと?
母の実家側にも怒りが込み上げてきました。
なんで帰る日に教えてくれなかった?
もう、心はグチャグチャでした。
そんな中、投薬が認知症の薬に変わるというので
母とふたりで薬局で薬をもらうのを待っていました。
正直、私自身にも自業自得な部分もあり
いろんな事があり涙ぐんでしましましたが
隣を見ると母が涙を流している姿を見て
あぁ、弱っている場合じゃないな、、、って気づき
母を励ましたのを覚えています。
本当にこの時期は辛くて辛くてたまりませんでした。
しかし、この時期は私も一杯一杯の最中精一杯のことをやったつもりでした。
途中でもっとこうしたらよかったなどで苦しまれている方も
この5年間でたくさん出会ってきました
その時にしたこと行動できたことは
自分の中で最大級にできることだったんだと思います。
私はそんな人たちを心の底から褒めてあげたい、認めてあげたいと思っています。
このnoteでは私が経験したこと、感じた心情などを書き記したいと思います。
自分がその活動をしていくことで少しでも誰かの心を
軽くすることができれば、この行動にも意味を成すことができるのではないか
そう感じています。
この先は有料となる記事も出そうと思っていますので無理のないように購読をいただけると嬉しいです。
最後に自分を許すことができるのは自分しかいません。
誰しも一生懸命に生きています。
この記事に流れ着いた貴方はきっと優しい方です。
どうか、自分を許してあげてください。