山姥切長義の超絶技巧―なぜ彼は本物でなければならなかったか/山姥切国広極の本当の結論

(2023年7月7日追記:こちらは2022年9月末、メディアミックスで登場済みの長義はステ(筆者は未視聴)、無双、花丸(雪月華)のみで、無双と花丸の小説版、および黎明やミュ(花影ゆれる砥水)が未公開時点での記事になります。2023年7月現在の見解とは一部異なります。加筆修正では追い付かないため修正等はしておりません。ご了承ください。最新の見解について興味のある方はこちらのまとめからどうぞ)

今年の6月から刀剣乱舞ONLINE「ふたつの山姥切」(あるいは通称「山姥切問題」)をめぐる考察を複数人で延々してきた集大成です。私自身は山姥切国広、特に国広極の熱烈なファンで、主な手段はひたすらゲーム内のテキスト分析です。資料・史料集めがとにかく苦手なので、それに関してはTwitterの集合知に本当にお世話になっています。先にお礼を言わせて下さい、ありがとうございます。

そして結論から言います。
ふたつの山姥切は、ふたつともが、誰も追いつけないような誇り高さで守るべきものを守ろうとしています。

これは、そういう考察です。
追記:長義の超絶技巧に脳がやられすぎていたため、やや断定口調が多めになっています。あくまで個人の一考察、また色々ある解釈のうちの一つです、よろしくお願いします。その他の解釈を否定するものではありません。

また、メジャーな認識を破壊しまくる刺激的な内容を含みます。
無理せずお読みください。

記事内では「山姥切国広」を「国広」、「山姥切長義」を「長義」と呼びます。また、これは考察の結果判断している使い分けですが、「本歌」は「山姥切長義」、「本科」は「長義の刀/本作長義」について使います。


国広を形作る物語はあくまで「山姥切の写し」

 ふたつの山姥切に関しては、「元ネタとなった刀剣」の話と「ゲーム内の二振りの設定」が非常に歪に重なっていて、「ゲーム内の設定」を見極めるのが相当困難な状態になっています。
 忘れてはいけないのは、「刀剣男士の山姥切国広」は第一義は「山姥切(霊剣『山姥切』)の写し」であり「山姥を斬った記憶はない」=山姥切伝説を自分のものとしては持っていない。それは修行後も変わっていないということです。
 そして、この「山姥切の写し」設定のために、修行前の彼は、おそらく「本作長義」を知らない。彼が記憶しているのは自分の「本科」である「長義の刀」が「山姥を斬った山姥切」=「化け物斬りの刀」であるということだけです。(追記:修行の手紙で「長義の刀」の話をしているのが「俺が会った人々」で、その後国広自身は一貫して「本科」と呼んでいるので、下手をすると「長義」については彼が実装されるまで本当に全く知らない可能性もありそうだなと思い始めました)
 だから国広が修行後もあまり号にこだわらないのは、今でも自分を伝説のある「山姥切」とは思っていないからです。ただ、「刀としての山姥切国広」が「山姥切」の号と伝説を持っているということは知っている。だから「刀剣男士の自分」と「刀の自分」の折衷案として「なんでも退治する」ことにしている。

修行前の国広は「写し」の集合体

 時々国広が「写しであること自体」を疎んじているという解釈を目にしますが、私は違うと思っています。彼は「自分が写しである」ということは気に入っている。ただ、「写し」が贋作と混同されてきた歴史などから、「どうせ写しの価値なんて分からないんだろう」という人間不信に陥っている。「写し」に関しては、彼が信じていないのは自分ではなく他人です。だからこそ、真剣必殺で「俺を写しと侮ったこと、後悔させてやる、死をもってな!」と叫ぶのです。
 ならば何故、国広は過剰に比較を嫌うのか? それはおそらく「山姥切国広」ではなく「写し」の集合体由来です。

国広は「俺は偽物なんかじゃない」という言葉をよく使いますが、似たような表現が出てくるのが長義との回想。

山姥切長義「やあ、偽物くん」
山姥切国広「……写しは、偽物とは違う」

回想56 ふたつの山姥切

ここでは「俺は」ではなく「写しは」偽物とは違う、です。国広は「本科」から「偽物くん」と呼びかけられたから、「(お前の)写し」=「俺」は偽物とは違うと答えている。
 何が言いたいかと言うと、普段の国広は「写し」の代名詞としても「俺」を使っている。しかし本科の長義に対してだけは「写し」がそのまま「俺」になる。だから長義には「写しは偽物とは違う」なのです。
 他にも、

山姥切国広「俺は、コピーではない」
ソハヤノツルキ「コピーでいいじゃねえか」
山姥切国広「なん、だと」
ソハヤノツルキ「写しから始まってもいいじゃねえか。問題はその後だ。生きた証が物語よ」
ソハヤノツルキ「お前の物語をつくりな」
山姥切国広「…………」

回想29 写しの悲哀

このやりとりの中で、ソハヤは「写し=コピー」と捉えて国広に助言していますが、これは国広の意図を誤解しています。「俺はコピーではない」は間違いなく「写しはコピーではない」の意味です。国広は「写し」を「コピー」と一緒にするなと言っている。
 しかもこれ、元ネタはおそらくこれです。

待ってくれお前は住民票の写しだったのか?

ツッコミが追い付きませんが、検索してみた限り刀の「写し」には「レプリカ」や「贋作」とは違うという話は出てきても「コピー」という表現は出てこない。これに対して「住民票の写し」ならほぼ完全一致の文字列が出てくる。そして住民票の「写し」は「コピー」では絶対に代替できない効力を持っている。コピーでは手続きを受理してもらえません。
 国広は「写しはコピーではない」と言ったのに「写し=コピー」という前提で話をされたので「なん、だと」となり沈黙してしまった。これは多分そういう回想です。このすれ違いは、ソハヤが「ウツスナリ」という典型的な写しの名をしていること、国広が本科である「長義の刀」とまったく違う名=個性を持っていることにおそらく起因しています。

 というわけで、修行前の国広は刀以外のミームにまで影響を受けるレベルで「写し」の集合体をしている。だから「写しの俺なんか……」をはじめとする卑下するようなセリフには、おそらく「山姥切国広」以外の「写し」由来の意識が混ざっている。
 そしてこの結果、特に国広推し以外の大多数に「お前がそれを言っていいのか」と思われているだろうセリフの意味が変わります。

修行帰還時「写しがどうとか、考えるのはもうやめた」
  =写しの集合体はやめた(どうせ写しだからとか言うのはやめた)


そりゃお前は写しがどうとか考えるのやめた方がいい。私はそう思います。

修行後の彼は今でも「写し」です。
さてそれは、「誰の」写しなのでしょうか。

修行前の国広のコンプレックスの本体は「伝説が無いこと」

 しかし同時に、国広は確かにコンプレックスも持っている。それが「山姥斬りの伝説がないこと」です。国広を「山姥切の写し」とした寒山説の中で、国広はあくまでその名から「山姥切」と呼ばれています。そして、霊剣『山姥切』とされているのは「長義の刀」で、そちらは「長義」と呼ばれています。二人のメディアミックスにおける呼び名は、おそらくこれに基づいています。
 
このため国広は「山姥を斬っていない山姥切」という矛盾を抱えている。自分は伝説を持たない「山姥切」。伝説を持っているのは「長義の刀」。伝説を持つ本科に憧れがあればこそ、「伝説を持たない写しの自分」は偽物なんじゃないかと悩んでいる。
 
けれど、本科と写しはあくまで別。俺は「長義の刀」じゃない。それが「山姥退治なんて、俺の仕事じゃない」です。このセリフは「俺は『山姥切』じゃない」ではないんです。「俺は『本科』とは違う」なんです。
 そして、国広が「俺は偽物なんかじゃない」と叫ぶとき、そこには「写しは偽物なんかじゃない」という意識の裏に、本当に信じたいこととして「山姥を斬っていなくたって山姥切国広は本物なんだ」がある。修行前の国広が写しの集合体をするほど「写し」にこだわるのは、伝説を持たない自分を本物だと信じきれないコンプレックスを、自分が信じている「写しは偽物ではない」によって乗り越えようとしているからです。
(長義に対しての一人称が「写し」になるのも、伝説を持つ本科の前で「俺は」偽物とは違うと言い切れずに、布で顔を隠すように「写し」の影に隠れているような節があります)

修行後の彼は、「写し」の集合体をやめた。
「写しは偽物ではない」に縋らなくても、伝説がなくても自分は本物だと信じられるようになった。
この話の続きは、長義の考察をしてからしたいと思います。

長義は山姥を斬っていない自覚がある

 いきなり長義推しの皆さんに怒られそうですが、結論から言うと「刀剣男士の山姥切長義」は山姥を斬っていません。ここで間違ってはいけないのは「刀の山姥切長義(本作長義)」は山姥切伝説がある「化け物斬りの刀」だということです。刀剣男士の山姥切国広と同じ状況です。長義はたとえ「山姥切」の正式な号がなくても、そう物語られた記録はある。長義を「山姥切」とする写しもある。国広が言う「長義の刀」は、確かに長義のことです。
 そして、長義は間違いなく山姥を斬っていない自覚があるし、だからこそおそらく、国広が修行で知るような内容も全て知っている。

混沌を齎す真偽―「偽物くん」の使い方

山姥切長義「やあ、偽物くん」
山姥切国広「……写しは、偽物とは違う」
山姥切長義「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」

回想56 ふたつの山姥切

長義の「偽物くん」の基本的なニュアンスは「山姥を斬っていない山姥切くん」です。これは一つには、国広のコンプレックスがそこにあることを理解した上での挑発と考えられます。

その上で、「山姥を斬っていない山姥切」を「偽物」と呼ぶことで、彼は「自分もまた山姥を斬っていない」という事実を隠蔽している。

二人のデュエット曲「離れ灯篭、道すがら」の歌詞にある「混沌を齎す真偽」。これは、「ふたつの山姥切」は命題の真偽判断によって解けというヒントのように思います。

「彼は偽物」の逆の命題は「偽物は彼(だけ)」
「彼は偽物」の裏の命題は「俺は本物」

しかし、真なる命題の逆や裏もまた真とは限りません。

長義が国広を偽物と呼んだからと言って、偽物は国広だけとは限らないし、長義が本物とも限らない。

長義はこれを利用して、言葉巧みに嘘をつかないまま、自分を「山姥を斬った本物の山姥切」だと思わせている。

刀帳の攪乱

刀帳を分析します。

山姥切長義。備前長船の刀工、長義作の刀だ。
俺こそが長義が打った本歌、山姥切。どこかの偽物くんとは、似ている似ていない以前の問題だよ

刀帳 158番 山姥切長義
  • 俺こそが長義が打った本歌、山姥切
    「俺こそが長義が打った本歌」で一旦区切っています。
    長義が(国広の)本歌なのは間違いありません。そして、その後独立した形で「山姥切」が来ます。「長義が打った本歌」は刀についての表現です。刀としての長義が「山姥切」なのも間違いありません。
    しかしこの文章、ギリギリのラインで「俺が本歌山姥切」とも「俺は本物の山姥切」とも言っていません。

  • どこかの偽物くんとは、似ている似ていない以前の問題だよ
    「似ている似ていない以前の問題」には推測される機能が恐ろしく多いのですが、ここでは真偽問題についてだけ考えます。「偽物くんと俺は似ている似ていないを比較する対象ではない。彼と俺とは関係ないよ」はい。偽物くんと俺は関係ない。彼が偽物だからって、俺が本物とは限らないよ。

この短い文章でよくぞここまで。
超絶技巧としか言いようがありません。何も言わずにこんな刀帳置くなと言いたくなりますが。

化け物斬りの刀そのもの

では南泉との回想はどうなるか。

山姥切長義「おや、猫殺しくん」
南泉一文字「……うるせぇ。見知った顔でも、お前には会いたくなかったよ」
山姥切長義「へぇ、それはやっぱり斬ったものの格の差かな? わかるよ、猫と山姥ではね」
南泉一文字「そういう性格だからだ……にゃ! ……あぁ、そうか。お前も呪いを受けてたんだにゃ?」
山姥切長義「呪い? 悪いがそういうのとは無縁かな。なにせ、化け物も斬る刀だからね」
南泉一文字「猫斬ったオレがこうなったみたいに、化け物斬ったお前は心が化け物になったってこと……にゃ!」
山姥切長義「語尾が猫になったまま凄まれても……可愛いだけだよ

回想55 猫斬りと山姥切

まずこの回想のタイトルは「猫斬りと山姥切」。タイトルの時点で「斬り」と「切」という違いがあります。国広が修行の手紙で「山姥斬りの伝説」という表現を使っているなど、実際に斬った場合はどうも「斬り」の表記が使われています。「山姥切」は斬っていません。

「斬ったものの格の差かな?」これは斬っていそうな表現なのですが、このあとズレてきます。

長義:化け物も斬る
南泉:猫斬ったオレ、化け物斬ったお前

南泉が「刀剣男士」としての「オレとお前」の話をしているのに対して、長義は「刀」の話をしています。そして「化け物斬ったお前」については、イエスともノーとも言わずに返答を回避しています。

最初に言いましたが、「刀」の長義が山姥切伝説を持っているのは事実です。長義はそういうずらし方をしている。その上で「化け物」斬り(山姥とは言ってない)だったり、化け物「も斬る」(まだ斬ったとは言ってない)などなど、その他の表現も微妙に「山姥を斬った」という表現をかわしています。(追記:これは直接「山姥切」と言わずに「山姥切」を示唆する表現ですが、国広の言う「化け物斬りの刀」に沿った表現でもあります)

そして、これはひょっとして口を滑らせているのか? と思うのですが、「呪いとは無縁」これはほぼ「斬ってない」と同義です。ヤバいものを斬ったら呪いとは無縁でいられないのが刀剣乱舞です。
(10/2訂正:「斬ったものに呪われる」は南泉が言っていることですが、南泉自身修行で「この呪いも自分の一部」という結論を出して来るのと、このあと長義が「化け物も斬る刀だから」とくるので、これはどうも「霊力があるから呪いとは無縁」という霊剣匂わせだなと考え直したので訂正させて頂きます。どちらにしろ「長義の刀」の話なので結論には影響ありません)

さらに、国広と南泉の回想54「呪い仲間」とほぼ同じ構造のこの回想、「呪い仲間」はタイトルに反して「呪い仲間じゃなかった」というオチです。つまりこの回想も、おそらく「何かを斬った仲間じゃない」という話です。

刀剣乱舞公式何考えてるんだ???????

本物の太刀筋を教えてあげるよ

興味のある方はWikiで長義のページを単語検索してみてほしいのですが、彼は刀帳や普段のボイスで一度たりとも「本物」という言葉を使いません。

唯一「本物」という言葉が出てくるのが国広との手合わせ特殊会話
「本物の太刀筋を教えてあげるよ」
これもやはり「本物」がかかるのは「太刀筋」なので、刀に属する表現と言えます。ここで「本物」という言葉が使えるのは、相手が国広であるため、「お前の知る長義の刀」の「本物」の「太刀筋」という意味ではないかと思います。「俺は本物」とは言っていません。

超絶技巧すぎて楽しくなってまいりました。彼は一度たりとも自分が「山姥を斬った本物の山姥切」であるとは言っていません。

さらに言うと、国広が期待するなと気にしている「霊力」、あるいは国広のキャラクター設定文にある「霊剣」という言葉も一切使いません。

そう。彼は「刀剣男士の山姥切国広」が模したと言われる霊剣『山姥切』ではないのです。

山姥切長義の正体

『山姥切』と「認識」されるべきは俺だ

一番の混乱を呼んでいる「『山姥切』と認識されるべきは俺だ」とはどういう意味か。彼が霊剣『山姥切』ではないということが分かれば話は簡単です。

俺はお前のもとになった『山姥切』ではないが、その「山姥切」と思われるべき存在だ。

そういう意味です。

そこまでの「偽物くん」と「俺を差し置いて山姥切の名で、顔を売っているんだろう?」は、どちらも「俺は偽物なんかじゃない」「写しなんか見せびらかしてどうするんだ」という国広のコンプレックスを刺激します。これは「国広の中でコンプレックスと化している『山姥切』」のロールプレイです。長義の本心そのものではなく、まさしく国広に「『山姥切』と認識される」ための演技です。(追記:長義の言動が能「山姥」を下敷きにしている節があるのも、そういう「お芝居」だという伏線なのかもしれません)

彼にとって「呼び名」は関係ありません。国広が「山姥切の写し」であることを前提として、自分が「山姥切国広の本歌の『山姥切』である」と「認識」されることが重要なのです。

俺こそが長義が打った本歌、山姥切

だから彼は、入手やドロップで真っ先に「俺こそが長義が打った本歌」と名乗ります。これこそが彼の正体です。
長義について調べると、すぐに行き当たる「本作長義(以下58字略)」の銘。

俺こそが=「本作」 長義が打った=「長義」 本歌、山姥切

彼の正体は「本作長義」
彼は「本作長義、山姥切国広の本歌の『山姥切』だ」と名乗っている。

「特命調査 聚楽第」の特殊性

 「そもそも山姥切長義は本作長義なのでは?」と混乱されている方もいるかもしれません。しかし、長曽祢虎徹が源清磨の一部となり得る刀剣でありながら名と逸話によって別個の刀剣男士として存在しているように、逸話の取捨選択によっては同じ刀から複数の刀剣男士が生まれる可能性があります。
 だから山姥切国広の本歌「山姥切」、つまり霊剣『山姥切』と「本作長義」は、厳密には別個の存在になり得る可能性がある。これをキャラクターとして昇華した結果が「山姥切長義」=「正体を伏せて『山姥切の写し』である山姥切国広の本歌・霊剣『山姥切』を演じている本作長義」というわけです。

 何故彼はそんなことをしているのか?

 山姥切長義が監査官としてやってくる「特命調査 聚楽第」には、他の特命調査と比べて違うところがいくつもあります。長義の目的を推測する手掛かりになりそうなものとしては

  • 回想タイトルが、初期刀が極めているかどうかで「監査官と写し」「監査官と極めた写し」に分かれる(他の特命調査では変わらない)

  • ラスボスが1周目から固定で、特定の歴史人物を匂わせる敵がいない

  • 監査官が「状況終了」という言葉を使う。これは「訓練」の終了を指す。また、「任務達成」や「任務完了」のような言葉を使わない。

そして他の特命調査にある「刀剣男士が極めているかどうかで内容が変わるが、回想タイトルが同一の回想」

回想56&回想57「ふたつの山姥切」は、この条件に当てはまります。

これは聞きかじった話なので、私自身詳しくは理解していませんが、「特命調査 天保江戸」は、歴史改変によって刀剣男士「源清磨」が存在の危機にさらされていると言います。そういう歴史改変を食い止める任務です。

そしてこちらも聞きかじった話ですが、聚楽第は「山姥切国広」が打たれない世界線だと言われています。
「特命調査 聚楽第」において、調査自体はおそらく「訓練」です。
つまり本当の歴史改変の危機はそこにはない。

これらの考察を全て「真」と考えるとこういう仮説が立てられます。

「特命調査 聚楽第」の状況に準ずる歴史改変の危機は本丸で起きている。

刀剣男士「山姥切国広」が消えてしまうかもしれない危機が本丸にある。
「本作長義」はそれを食い止めるために「山姥切長義」としてやってきた。

本作長義には「山姥切」の正式な号が無い

 刀剣乱舞のゲームリリースによって現実世界で起こったこと。それは「山姥切国広」が「山姥切の写し」として実装されることによって、「本作長義=山姥切」という認識が広まる、というものでした。
 その結果、本作長義を所蔵している徳川美術館から論文が出されました。「本作長義に『山姥切』の号があったという正式な史料はうちにはない
 これは刀剣乱舞クラスタに拡散され、伝言ゲームの失敗によってこういう間違った認識が生まれました。

「本作長義」は『山姥切』ではない。
刀剣乱舞の「山姥切国広」は「本作長義」とは無関係。
刀剣男士「山姥切国広」の本歌にあたる『山姥切』は実在しない。

はい。

「本歌」がいなければ、「写し」は存在しえない。

「山姥切の写し」である「山姥切国広」は、「『山姥切』は実在しない」という現実世界の審神者達の認識によって、実在の危機にさらされてしまった。

だから今、「本作長義」は「山姥切長義」として戦っている。

自分の写しである刀剣男士「山姥切国広」の消滅を食い止めるために。
「山姥切国広」すなわち「山姥切の写し」の本歌『山姥切』はこの俺だ。
それを審神者に認識してもらうために。

長義に「山姥切」の正式な号がないのは事実です。そして審神者にもそれは認識されている。だから長義は「本物の山姥切」にはなれない。それでも「山姥切」の実在は信じさせなくてはいけない。「山姥切の写し」の物語に登場する「長義の刀」は、確かに「本作長義」のことです。この状況からひねり出されたのが「『山姥切』を演じる本作長義」=「山姥切長義」です。

各メディアミックスで、何故長義は無暗に国広に突っかかるような描写をされるのか? そこまで『山姥切』にこだわるのは何故なのか?

長義は「本物の『山姥切』」ではない。
けれど一刻も早く「本物の『山姥切』」=「山姥切国広の本歌」と認識されなくてはいけない。何らかの証明をしなければいけない。
そうしなければ、「山姥切国広」が消えてしまう。

おそらくはそれが彼の焦りの理由です。
そのために彼は、なりふり構わず捨て身の特攻も辞さない。

「山姥切国広の本歌」として、ふさわしくあるために。

修行前国広にとっての山姥切長義

それでは、写しである山姥切国広はどうなのでしょうか。

 まず修行前の国広は、「本作長義」を知りません。
 だから長義に「『山姥切』と認識されるべきは俺だ」と言われても意味が分からない。『山姥切』と「認識」されるべきは「本科の長義」、そんなことは国広にとって「当然」だからです。
 また、長義が国広の前であまりらしくない特攻をするのは、「本作長義」の面は国広には見せられないというのもあるのでしょう。本丸では審神者の前でだけ見せるあの一面です。

 「偽物くん」呼びにしてもそうです。「山姥を斬っていない山姥切」、確かにそうだが、なんでわざわざそんな呼び方するんだ。国広にとってはその程度のはずです。しかしこれは国広が克服したいコンプレックスそのものなので、ストレートに挑発です。
 また、長義が本丸に来るために「実力を示せ」というのは、そういった挑発に耐えうる強さを見せろ、という意味でもあるのでしょう。「偽物くん」呼びは、長義にとって自分を『山姥切』と認識させるための重要な手段です。使わないわけにはいきません。

 それだけではありません。長義の「偽物くん」に対して国広が「写しは偽物とは違う」と答えるとき、主語は暗に「お前の写しの俺は」です。
 「お前の写しの俺は、偽物とは違う」
 国広がこう答えることで、写しの集合体の面がある国広の認識が一時的に「長義の写し」に統一され、「俺は偽物とは違う」に安定する効果があると考えられます。一種の精神統一です。

 そういうわけで、修行前の国広にとって長義の存在は「長義の写し」として安定し、「山姥を斬っていない山姥切」というコンプレックスを克服するという自分の課題に集中するためのサポートになります。

「弱い刀には修行が必要、そういうことかな」
 味わい深い修行見送りセリフです。

山姥切国広が修行の手紙に秘めた決意

……強くなりたいと思った。
修行の理由なんてのはそれだけで十分だろう。
誰よりも強くなれば、俺は山姥切の写しとしての評価じゃなく、
俺としての評価で独り立ちできる。

山姥切国広 修行の手紙 1通目より

「山姥切の写しとしての評価」とは何か。
国広は「山姥切」との比較を嫌がって顔を隠し、自分が汚れようとします。そして「山姥斬りの伝説がないこと」を気にしています。
つまり国広が嫌がっているのは、「山姥切」を基準にした評価だと考えられます。「山姥切」と比較して良い悪い、そういう評価をされたくない。「俺としての評価で独り立ち」したいというのは、「山姥切」とは関係のないところで純粋に「俺」自身を見てほしいという切実な願いです。
だから国広は、「国広の第一の傑作」として独り立ちしたかった。
ただそこには、やはり「伝説がない」というコンプレックスが滲みます。

俺は、山姥を斬った伝説を持つ刀、山姥切の写しであって、
山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している。
だが、俺が会った人々は、俺が山姥を斬ったから、
そのもとになった長義の刀が山姥切と呼ばれるようになったという。
これでは、話が全く逆だ。
写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。
どう、受け止めていいかわからない。

山姥切国広 修行の手紙 2通目より

「本科の存在感を食ってしまったようなものだ」
 国広が「本科」に対して好意的だということが端的に分かるテキストはこれだけと言えます。この戸惑いには、伝説のある本科への憧れが滲みます。
 国広が「山姥切」と比較されたくないと言う理由。ゲーム内で「長義」や「本科」という呼び方で長義に言及しない理由。それは、「山姥切」へのコンプレックスで「本科」への憧れを汚してしまいたくない。そういう理由もあるように思います。

前の手紙のあと、長い年月、多くの人々の話を聞いて、わかったことがある。
俺が山姥を斬ったという伝説、本科が山姥を斬ったという伝説、
そのどちらも存在しているんだ。
案外、どちらも山姥を斬ったりなんかしていないのかもな。ははは。
人間の語る伝説というものは、そのくらい曖昧なものだ。
写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。
俺は堀川国広が打った傑作で、今はあんたに見出されてここにいる。
本当に大事なことなんて、それくらいなんだな。

迷いは晴れた。俺は本丸に帰る。

山姥切国広 修行の手紙 3通目より

一見、国広のアイデンティティのはずの「山姥切伝説」も「写し」もすべてどうでもいいというような手紙に見えます。

しかし、「山姥切伝説」に関して言えば、国広が気にしていたのは自分が「山姥斬りの伝説が無い山姥切」だということです。だから国広が出すべき結論は「山姥斬り伝説が無くても俺は『山姥切』なんだ」です。

案外、どちらも山姥を斬ったりなんかしていないのかもな。(中略)
写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。

山姥斬り伝説がなくてもいい。これは国広が出すべき正しい答えです。
さらに山姥切長義について考察した限り、「どちらも山姥を斬ったりしていない」というのは、「刀剣男士のふたつの山姥切」についても正しい理解です。
国広は「伝説がある」本科に憧れていたはず。けれどここでは、「どっちも斬ってないのかもしれない」と言って笑っている。朗らかな調子で。

 史実上、「本作長義(以下58字略)」というのは大変長い銘であることで有名であり、山姥切伝説がどんなに揺らごうとも変わることのない強さを持っています。
 そして、刀剣男士・山姥切長義は、山姥を斬った記憶が無いことに全く臆すことなく、本物の「山姥切」として戦っている。これはまさしく「本作長義」の強さそのままと言えます。
 そして同時に、これは「山姥切の写し」である刀剣男士・山姥切国広が手に入れたかった強さそのものです。

彼はおそらく、山姥切伝説を聞き歩く中で、「長義の刀」が持っていた本当の強さ、彼自身の評価である「本作長義」を理解した。

だから国広は、修行の手紙にこう書きました。

俺は堀川国広が打った傑作

これは「俺こそが長義が打った本歌」=「本作長義」の本歌取りです。

国広が出した本当の答えはこうです。

俺は堀川国広が「本作長義を写して」打った傑作で、今はあんたに見出されてここにいる。
本当に大事なことなんて、それくらいなんだな。

迷いは晴れた。俺は本丸に帰る。

国広の第一の傑作として独り立ちする。
山姥切国広極は、正しく独り立ちしている。「本作長義の写し」として。

国広極が分かったこと

山姥切長義「やあ、偽物くん」
山姥切国広「……写しは、偽物とは違う」
山姥切長義「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」
山姥切国広「……名は、俺たちの物語のひとつでしかない」
山姥切長義「……なに?」
山姥切国広「俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……」
山姥切長義「……なにを偉そうに語ってるんだよ」
山姥切国広「お前とこうして向き合うことで、またひとつわかった気がしたんだ……」
山姥切長義「俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ! お前が御託を並べようと、それは変わらない」
山姥切国広「そうかもしれない。……すまんな、俺もまだ考えている。……こうして戦いながら」
山姥切国広「……また話をしよう」
山姥切長義「…………」
山姥切長義「……くそっ……くそっくそっくそっ! なんなんだよ!」

回想57 ふたつの山姥切

国広極は、長義と向き合って何が分かったのか。
少なくとも一つは、長義と向き合って、つまり「長義の顔を見て」「自分の顔とは違う顔」だということに気づいたのではないかと思います。
もしも自分が長義を模して造られたなら、もっと同じ顔をしているはず。
ということは、長義は霊剣『山姥切』ではない。
自分と長義は、形作る物語を異にしている。

長義はおそらく、「本作長義」なのではないか?

「名は俺達の物語の一つでしかない」

本作長義が何故「山姥切」をしているのか。
それが例えば自分のサポートのためだと思ったなら、もうそれは独り立ちしたから必要ないと言いたいのかもしれません。あるいは、お前にとって「山姥切」は取るに足りない名のはずだ、と言いたいのかもしれません。
本作長義が「山姥切」と認識されるべき。そうかもしれない。
けれど、本当に?

 国広は刀帳で「山姥切の写し」を削除し、修行の手紙によって「本作長義の写し」を隠し持つことで、長義が「本作長義」として顕現できる条件を揃えている。だから、もしも自分が「山姥切の写し」だったせいで長義が無理に「山姥切」をしているなら、もうそれは必要ないと言いたいのかもしれません。
 その一方で、長義が「なんなんだよ!」となっているのは、おそらく「本作長義」の正体が見抜かれていること、国広極が「本作長義の写し」をしていることに気づいていないためと考えられます。

これ以上の推測は難しいですが、これ以上推理する必要もないかなと思います。

山姥切長義極は、間違いなく「本作長義」に名義変更してくると思います。国広極はその準備を完了している。そして「長義」が「山姥切国広の本歌の『山姥切』」であるという認識さえあれば、それをさらに支えるものとして「本作長義」ほど強力な実在性はないのだから。

答え合わせは、その日を待ちたいと思います。
とっとと実装してください。もう何が起きる覚悟もしたので。

ふたつの山姥切と霊剣『山姥切』

最後に霊剣『山姥切』についてです。「離れ灯篭、道すがら」にこんな歌詞があります。
醒め遣らぬ夢は いずれ真にも変わり 跡を創る

これは長義が主旋律のハモりパートで、MVのサムネイルにも使われている歌詞です。そして血しぶきに彩られる山姥切長義、まさしく「化け物斬りの刀そのもの」という感じです。最高。

山姥切長義という醒めやらぬ夢は、いずれ真にも変わり、彼が例え本作長義に戻ったとしても、跡を創る。

山姥切国広は「霊剣『山姥切』の写し」
山姥切長義(本作長義)は「化け物斬りの刀そのもの」

大侵寇で何かありましたね。「俺を使え!」

「山姥切」の名を持つ国広が、「山姥切」と認識される長義を刀として使うとき。ふたつの山姥切はひとつになって、霊剣『山姥切』に姿を変える。

たぶんそういうのがしたいんだと思います。

もうすでにめちゃくちゃ見たいから、お願いだからユーザーのメンタルケアをしっかりしてサービス続けてください運営……。

ちなみに蜂須賀虎徹と長曽祢虎徹もそういうのやると思います。
初期刀5振り全員あるんじゃないでしょうか、合体技。
楽しみですね!(爽)


あ、そうそう、もうひとつ。
「山姥を斬った山姥切」って、結局どこにもいないんですかね?
そういえば、聚楽第のボスって、結局誰なんでしょうね?
こわいなー。

追伸:ちなみに、メタ視点を除くと長義の目的が「国広に」本歌と認識される→ストレートに霊剣『山姥切』という説もあります。この場合、手合わせが「『俺の使い方』を教えてくれてるのか……」とこれはこれでだいぶ凄い感じになります。目的は案外両方かもしれません。

追伸:国広の解釈について補足記事ができました

追記:国広と長義は形作る物語を異にしているという話について、いとさんが図解してくださったものの転載許可を頂いたのでご紹介します。私の記事は背景解釈も含めたものになっていますが、こちらの図解は純粋に二振りの関係の構図把握に特化していて、元ネタになった史実関係の考察なども充実したまとめなので、文字情報だけでは分かりづらいという方はぜひご覧ください。

いとさん(@konoito_ri)作の図解