結局のところ山姥切国広と山姥切長義ってお互いの事どう思ってるの?

最初は「メディアミックスで国広が『山姥切』で長義が『長義』になるのはなんでだろうな」というわけで、原作ゲームをもとに呼び名に関する解釈を色々考えていたのですが、途中から趣旨が変わってきた記事です。
全ては個人の一解釈です。よろしくお願いします。

長義は自分を「山姥切」と呼んでほしいのか?

 これは既にほうぼうで指摘されていますが、入手・刀帳・回想以外で、つまり日常的に聞けるボイスで長義が「山姥切」に言及するものはありません。「できればへし切ではなく、長谷部と呼んでください」と言う長谷部など、本丸ボイスで呼び名を主張するキャラもいるにも関わらず、です。

 また、詳しくは前回記事を参考にしていただければと思うのですが、

彼はどうも「俺こそが(=本作)長義が打った本歌」という形で、名乗りに「本作長義」の銘を隠し持っている。
 そして、刀帳の名乗りは「俺こそが長義が打った本歌、山姥切」という表記なので、「俺こそが」がかかるのは「本歌」までとも読めます。つまり、「刀帳では俺こそが『本歌』と主張しているだけで、俺こそが『山姥切』とは言っていない」という可能性がある。

そういうわけで、

  • 長義が重視しているのは「呼び名」ではなく言葉通りの「認識(どう思われるか)」

  • 長義が主張したいのは『山姥切』よりも『本歌』の可能性がある

と言えます。

国広が嫌う「比較」と「偽物」の認識

国広が直接「山姥切」という名称で自分のもととなった刀に言及するのは以下の通り。

刀帳:足利城主長尾顕長の依頼で打たれた刀だ。……山姥切の写しとしてな。
馬当番:……ははは。雑用結構。これで山姥切と比較する奴もいなくなるだろ/俺にはこれがお似合いさ……
畑当番:泥にまみれていれば、山姥切と比べるなんてできないだろ……/はは、これで綺麗だなんて言う奴はいなくなる

 特に馬当番と畑当番では、自分の本科を指して「山姥切」と呼んでいるのは確かです。その上で、これはどちらも「汚れていれば本科と比較されない、綺麗だなんて言われない」という趣旨の発言です(馬当番は「雑用」なので若干ズレますが)。他にも、

負傷:ぼろぼろになっていれば俺を比較する奴なんていなくなる
刀剣乱舞二周年:二周年記念だろうが、服装を改める気はないぞ。そうでなくては比較する奴がいるだろうからな……

という感じで、国広が比較されて嫌なのはほぼ「見た目」です。

 ちょっと待ってほしい。「本科と比較されて『綺麗』と言われる」ということは、比較された結果褒められているのでは?
 長義についている形容詞は公式Twitter紹介によると「美しい」です。だから「綺麗」が「本科と違う」=「偽物」という意味に聞こえるという可能性はあります。国広の性格は「少しひねくれ気味」。つまり、「山姥切」と比較されて「山姥切の偽物」と思われるのが嫌なあまりに、綺麗という褒め言葉さえ素直に受けとれなくなっている。そのせいで「絶対に綺麗と言われない格好」をしたがっている。

 その一方で、「山姥切伝説」に関連するセリフ。

出撃:山姥退治なんて、俺の仕事じゃない。
本丸ボイス:化け物斬りの刀そのものならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?
演練:相手は名だたる名剣名刀。なのに俺は……

どれも「山姥切」という直接の名称は使っていません。長義を指す「化け物斬りの刀」という表現は、長義と南泉の回想でも出てくる表現です。つまり、国広は「山姥は斬っていない、斬るつもりはない」と主張しているのであって、名が「山姥切」じゃないと言っているわけではない。
 
また、戦闘では自分の切れ味に自信があることが見て取れます。

ボス到達:相手が何だろうが知ったことか、斬ればいいんだろう
会心の一撃:俺は偽物なんかじゃない
真剣必殺:俺を写しと侮ったこと、後悔させてやる。死をもってな!
ランクアップ:……ふん。どんなに強くなっても、所詮は写しとか思っているんだろう?

「俺は偽物なんかじゃない」=「写しだからといって、山姥を斬っていないからといって見くびるな」という印象です。

 その一方で、国広が自分で「写しなんか」と言うのが例えば万屋。

万屋:写しなんか見せびらかしてどうするんだ

やはり見た目に関連した話です。

総合すると、

  • 国広が「写しの俺なんか」と卑下するとき、「見た目だけは綺麗な山姥切の偽物」というニュアンスがある

  • 自分が「山姥切」の名を持つことそのものを否定しているわけではない

ようです。

というわけで、長義が「山姥切と呼んでほしい」とは言っていないのと同じく、国広も「山姥切と呼ばないでほしい」とは言っていないので、「山姥切」と呼ばれること自体は構わなそうです。

回想56「ふたつの山姥切」のふたつの解釈

そもそもの話として、国広は長義をどう認識しているのか。修行の手紙2通目から確認します。

俺は、山姥を斬った伝説を持つ刀、山姥切の写しであって、
山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している。
だが、俺が会った人々は、俺が山姥を斬ったから、
そのもとになった長義の刀が山姥切と呼ばれるようになったという。
これでは、話が全く逆だ。
写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。
どう、受け止めていいかわからない。

「山姥を斬った伝説を持つ刀」「山姥切」「長義の刀」「本科」。つまり通常ボイスには含まれませんが、国広は長義を「長義の刀」「本科」としても認識しています。
 
また同時に、ここでは「山姥を斬った伝説を持つ刀」を「(本物の)山姥切」と認識していることも確認できます。

それを踏まえて問題の回想56。

「やあ、偽物くん」
「……写しは、偽物とは違う」
「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」
「……そんなことは」
「でもそれは、仕方がないか。だって、ここには俺が居なかったんだから」
「……それは」
「俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ。そのことを教えてあげようと思っただけだよ」

回想56 ふたつの山姥切

「偽物くん」とはどういう意味か

 国広の「写しは偽物とは違う」という返事に対して「俺を差し置いて『山姥切』の名で~」が来るので、「写し=偽物」という意味ではないのは間違いありません。
 国広はというとテキスト上は「……」と、答えるまでに若干考えている(音声では間は感じませんが)ので、長義に偽物くんと呼ばれる意味が分からず、戸惑いながらも「写し=偽物」はとりあえず否定した、というくらいに見えます。
 そして「俺を差し置いて『山姥切』の名で顔を売ってる」と続きますが、地味に長義は「どんな『俺』なのか」を明示していません。このため、

  • 解釈1:「本物」の俺を差し置いて『山姥切』の名で顔を売ってる
    → 偽物くん=『山姥切』の偽物

  • 解釈2:「本歌」の俺を差し置いて『山姥切』の名で顔を売ってる
    → 偽物くん=『写し』としての礼儀がなってないよ

の二通りが考えられます。

『山姥切』の名で顔を売っているんだろう?

 このセリフで注目したいのは「だろう?」という語尾。これは、どちらかと言えば国広自身の認識を確認しているように見えます。特に「顔を売っている」という表現は、見た目の比較を気にする国広のコンプレックスを直撃します。そのため、これも解釈は少なくとも二通り考えられます。

  • 解釈1:山姥を斬ってないのに『山姥切』と呼ばれているんだろう?

  • 解釈2:「自分は本科を差し置いて『山姥切』の名で顔を売ってる」と思っているんだろう?

 これについてもやはり国広のセリフは答える前に「……」が挿入されています。その上で「そんなことは」と、煮え切らない否定。このとき、前者については正直「そんな文句俺に言われても困る」という内容なのに対して、後者については「写しなんか見せびらかしてどうするんだ」など、実際に心のどこかでそう思っている。だからこそ、国広には否定しきれなかったのでは?

でもそれは、仕方がないか。だって、ここには俺が居なかったんだから。

 長義がここにいなかったから、国広が長義を差し置いて『山姥切』の名で顔を売っているのは仕方がない。つまり長義がいさえすれば、こんなことにはならなかった。それは、長義がいれば国広が『山姥切』と呼ばれるようなことにはならなかったということなのか、国広が見た目をコンプレックスにするようことにはならなかったということなのか。

 これに対しての返答は「……それは」。それはまあ、そうかな? くらいの同意でしょうか。これに同意するということは、国広はどちらかといえば長義に居てほしかったのか? という気配も漂います。長義がいてくれたほうが、「『山姥切』はあいつ、俺は写し」と説明しやすいのは間違いないです。一方で、比較されてしまうのでは? という疑問はありますが、比較されたくないのは見た目であって、切れ味で負けるつもりはないと考えると、最初から長義がいてくれれば、「山姥切の偽物と思われるんじゃないか」なんて心配せずに『山姥切』と『山姥切の写し』として正面から張り合えたのかな? みたいな可能性が出てきます。

そのことを教えてあげようと思っただけだよ

 『山姥切』と認識されるべきは俺だ、そのことを教えてあげようと思った「だけ」というのは、普通に考えれば、棘のあることを言ったけど悪気はないよくらいに思えます。それを踏まえると「『山姥切』と認識されるべきは俺だ」の解釈はどうなるか。

そもそも長義は、「誰」に『山姥切』と認識されたいのか?

万人に対して『山姥切』と認識されたいと聞こえるからこそ、長義は「国広が『山姥切』と思われているのが気に入らない、本物の俺こそが『山姥切』と認識されるべき」と言っているように感じます。この場合、このセリフは「お前に非があるわけじゃないけど俺も譲れないんだ、悪いね」という断り、あるいは、「そういうわけでこれから『山姥切』の認識を取り返すから、覚悟しろよ」という宣戦布告と考えられます。

しかし、万人に認識されたいなら、それを国広(だけ)に言うのは何故なのか? また、国広が「山姥切」と認識されているとは限らない以上、事実と齟齬が発生する可能性があるのは何故なのか?

長義が誰より『山姥切』と認識されたいのは、国広だからなのでは?

しかし、国広はむしろ誰よりも長義を『山姥切』と認識しているはず。その国広に認識を確認するということは、逆に国広が自分の本科を『山姥切』と思っていることこそが問題という考え方もあります。

「偽物くん」「俺を差し置いて山姥切の名で顔を売っているんだろう?」は、それぞれの解釈2でいけば、「お前の中の『山姥切』は、写しのお前にこう語りかけるんだろう?」という意味にも解釈できます。つまり、「国広がコンプレックスを感じている『山姥切』」を演じた上で、「その『山姥切』は俺のことだろう」と確認している、

お前が自分のもとになった『山姥切』と認識するべきは俺だ。お前が思ってる『山姥切』は俺そのものじゃないよ。

という、ぱっと見の印象とは真逆の意味の可能性もあるわけです。

このため、「『山姥切』と認識されるべきは俺」のニュアンスには以下の二通りの解釈ができます。

  • 解釈1:万人に『山姥切』と認識されたい
    →お前から『山姥切』の認識を取り返すという「宣戦布告」

  • 解釈2:国広に『山姥切』と認識されたい
    →俺がお前のもとになった刀だよという「自己紹介」

解釈2の方向なら、長義はむしろ自分が国広の『本歌』であること、そして、自分が『山姥切』というだけではないと分かってほしいということになる。刀帳の解釈で触れましたが、長義は自分が『山姥切』である前に「本作長義」でもあることを自覚している可能性がある。その場合、長義が「長義」と呼ばれても気にしないのは当然の流れです。

国広からの長義の呼び方

まとめると、回想56の長義の主張は主に二つの解釈が考えられます。

解釈1 宣戦布告
お前は「山姥切」の偽物。それなのに「山姥切」だと思われてるのはよくない。皆に「山姥切」と認識されるべきは本物の俺だ。お前から認識を取り返すから覚悟しておけ。
解釈2 自己紹介
お前は「写し」としてなってない。コンプレックスにまみれて見ていられないよ。お前に「山姥切」と認識されるべきは俺、長義が打った本歌だ。俺にコンプレックス持つのはやめてくれ、これからよろしく。

二通りに分けましたが、どちらが正しいと言うよりも、あえて分かりづらい言い回しで挑発しているくらいなのではないかと思います。なんなら意図を明確に理解させる気があるかも不明です。主語その他を明確にしてくれ。

その上で、宣戦布告として受け取った場合、国広が長義を「山姥切」と呼ぶのは敗北宣言に等しいです。自分が山姥切と思われたいというわけではなくても、これを言われて「山姥切」と呼ぶのは普通はプライドが傷つくし、もっと言えば「俺に『山姥切』と呼ばれたくないのか?」くらいの感触になってもおかしくない。喧嘩を売られている場合、素直に「山姥切」と呼ぶのは売られた喧嘩をスルーすることになるからです。そして自己紹介のニュアンスを受け取った場合、国広はこの回想で認識を正し、長義を「長義」や「本科(本歌)」と呼ぶようになるというのもあり得る話です。

なので、

  • 宣戦布告と受け取った国広は「長義」と呼ぶ

  • 「俺がお前の本歌だ」という自己紹介と受け取った国広は「長義」や「本科」で呼ぶ

  • 素直に「『山姥切』は長義」と認識しなおした、あるいは「結局何が言いたかったんだ?」と煙に巻かれた国広は「山姥切」と呼ぶ

というわけで、国広から長義に関しても、どの呼び名も個体差範囲で説明はできるのではないかと思います。

呼び名の話はここまでです。ここからさらなる独自解釈に踏み込みたいと思います。興味のある方はお付き合いください。

国広は本科の存在感を食いたくない

 ところで、修行の手紙2通目をもう一度確認してみます。

俺は、山姥を斬った伝説を持つ刀、山姥切の写しであって、
山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している。
だが、俺が会った人々は、俺が山姥を斬ったから、
そのもとになった長義の刀が山姥切と呼ばれるようになったという。
これでは、話が全く逆だ。
写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。
どう、受け止めていいかわからない。

 修行前の国広は、「自分が山姥切と呼ばれたから長義も山姥切と呼ばれるようになった」という伝説を覚えていません。しかし、山姥を斬ったのは「俺じゃない」「記憶している」という表現から、わりとあっさり自分の記憶を疑っているので、無意識下には自分が「山姥切」だという記憶もあったのでは? という気配もあります。

 他にも、

本丸:化け物切りの刀そのものならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?

 国広は「霊剣」に関わってか「霊力」を期待しないでくれと言いますが、長義自身は自分に「霊剣」「霊力」といった表現は使いません。そうなると逆に、霊力を持っている気がするからこそ、持っていないと思いたいのでは? という気配さえ漂います。

 そして修行前で唯一布をかぶっていない立ち絵である真剣必殺。

真剣必殺:俺を写しと侮ったこと、後悔させてやる。死をもってな!

 金髪の素顔を晒して敵を斬る姿には、それで「山姥切」じゃないというのは無理がないか? と言いたくなります。

負傷:血で汚れているくらいで丁度いい
本丸:綺麗とか、言うな
修行見送り:ああ。そいつの今後に期待すれば良い。俺なんかじゃなくな
出陣:山姥退治なんて、俺の仕事じゃない

「戦場で汚れているくらいがちょうどいい、綺麗とか言うな、俺なんかに期待しないでくれ、俺は山姥切じゃない」

 こう並べてみると、修行前の国広が布で顔を隠して自分は山姥切じゃないと頑なに主張するのは、そもそも潜在意識として「本科の存在感を食いたくない」という気持ちがあるからにも見えます。そのために、自分が「山姥切」と呼ばれた記憶を無意識に抑え込んでいるのでは?

 また、国広が写しとして作られた理由の一つには、「戦闘で長義が損なわれないように、長義の代わりに折れてもいいように」というのもあるそうです。

負傷:血で汚れているくらいで丁度いい
手入(中傷):このまま、朽ち果ててしまっても、構わなかったんだがな

 長義の代わりに戦場で折れるくらいで本望なのでは? 感があります。

 しかし、そうは問屋が卸さないのが国広が持つもう一つの肩書「国広第一の傑作」。国広が偽物と思われるのが困るのは、何より自分が刀工・堀川国広の代表作だからです。

ここでちょっと確認したいのが、修行の手紙3通目と、修行帰還時に国広が主に告げるセリフの微妙な違い。

写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。
俺は堀川国広が打った傑作で、今はあんたに見出されてここにいる。
本当に大事なことなんて、それくらいなんだな。

手紙3通目

写しがどうとか、考えるのはもうやめた。俺はあんたの刀だ。それだけで十分だったんだ

修行帰還

手紙では「写しがどうの、山姥切の伝説がどうの」「悩んでいたのが」馬鹿馬鹿しくなった。帰還時のセリフでは「写しがどうとか」「考えるのは」もうやめた。つまり、国広極は『山姥切』について考えるのをやめたとは言っていない。
 
実際、回想57で長義に「『山姥切』と認識されるべきは俺だ」と言われて「俺もまだ考えている」と答えていたり、出陣での開戦時のセリフでも

修行前:参る
修行後:山姥切国広、参る!

と、修行後は『山姥切国広』の名を名乗るようになっていて、自分が『山姥切』であることには自覚的な気配があります。

『写し』の俺が『山姥切』と認識されて、本科の存在感を食いたくない。
「国広第一の傑作」として、『偽物』と認識されるわけにはいかない。

「俺は偽物なんかじゃない」と叫びながら、一方で「山姥退治は俺の仕事じゃない」と主張し、「写し」の自分を卑下する修行前の国広。「写しがどうとか、考えるのはもうやめた」と言いながら、「山姥切国広、参る!」と『山姥切』の名を名乗っている国広極。どちらも、このジレンマの結果と解釈しても矛盾はありません。
 その上で、国広極が「写しがどうとか考えるのはやめた」というのは、「写しを引け目に思うことも、写しの俺が評価されることで本科である長義の存在感を食うかもしれないことも、もう考えない」という意味ではないかと思います。

『山姥切』の認識と山姥の呪い

回想56の話に戻りますが、ここで長義が「本物の『山姥切』は俺だ」と主張していると解釈される理由として、そのほうが先に実装された国広の認識に沿っていること、もう一つ、能『山姥』における山姥の言い分に酷似していることが挙げられます。

[従者]山姥というのは、山に住む鬼女のことだと、曲舞にも謡われています。
[女]鬼女というと女の鬼ということですか。たとえ鬼であっても人であっても、山に住む女を山姥というのであれば、私の境遇のことではありませんか。(百ま山姥が)長年の間、歌の言葉では山姥のことを口にしておられながら、真の山姥のことは露ほども心にかけてくださらない。その恨みを申し上げに来たのです。曲舞の道を極め、名声を得て、この世の栄光を集めることができたのも、この曲舞の一曲のおかげではありませんか。

Wikipedia 山姥 (能) 宿を勧める女

また、国広と長義のデュエット曲「離れ灯篭、道すがら」にも、「身をもってなお恨めし」など、この演目も下敷きにしていそうな箇所がいくつかあります。

これを下敷きにしていると考えても解釈は2通りあります。

  • 解釈1 
    山姥を斬っていようといまいと、山姥を斬った伝説を持つ刀を『山姥切』と言うなら俺の事だ。お前は『山姥切』のことを口にしながら、本物の山姥切である俺のことは気にかけてくれない、その恨みを言いに来た。

  • 解釈2 
    山姥切だろうと本作だろうと、お前の本歌を『山姥切』と言うなら俺の事だ。お前は『山姥切』のことを口にしながら、本物の本歌である俺のことは気にかけてくれない、その恨みを言いに来た。

どちらだったとしても、長義の役どころは「山姥」です。(引用では「女」となっていますが、これは山姥の化けた姿です)

このことと、南泉に回想55で「山姥に呪われている」と言われ、それを否定するも「心が化け物になった」と言われていることから、「あの長義は山姥に呪われて心が山姥になっている」という解釈もできます。

そういうわけで、『山姥切』には「山姥の呪い」もまとわりつく可能性がある。ただし南泉が修行によって「猫の呪い」を「自分自身」として受け止めるようになるので、長義が「呪いとは無縁」と言うのも、呪いを既に自分自身として受け止めているから、という解釈もできます。
 その上で、猫と山姥の違いから、山姥の呪いは猫の呪いより厄介な可能性もあります。このため、回想56&57の長義は、

  • 山姥の呪いで『山姥切』の認識にこだわっている

  • 『山姥切』の認識=「山姥の呪い」を自分に集中させて国広を呪いから守ろうとしている

  • 山姥として振る舞い、国広に自分を斬らせて「山姥を斬った」という実績を持たせようとしている

などの解釈もできます。どれも決め手はありませんが、三つめは国広が全力で遠慮しそうなのは間違いありません。

また、この「山姥の呪い」が厄介なものとして存在していた場合、国広極の修行の手紙と、回想57でのセリフ。

案外、どちらも山姥を斬ったりなんかしていないのかもな。ははは。
人間の語る伝説というものは、そのくらい曖昧なものだ。

山姥切国広 修行の手紙 3通目

名は俺たちの物語の一つでしかない

回想57 ふたつの山姥切

国広は『山姥切』について考えることをやめていないという前提に立つと、このふたつは二振りの『山姥を斬った伝説』を否定し、また「名の物語」をそれが全てではないとすることで、二振りの『山姥切』の認識を薄めて呪いを軽減しようとしているようにも見えます。

まとめ

というわけで、最後が駆け足になりましたが、

国広が『山姥切』と思われたくないのは長義に遠慮しているから、長義が『山姥切』と認識されたいのは国広の本歌として認められたいし、国広にもおかしな遠慮をせず自信を持ってほしいから。

あるいは、

長義は呪いを利用して国広を「本物の山姥切」にしようとしていて、国広は『山姥切』の認識を薄めて呪いを回避することを考えている。

など、どちらに転んでもこの二振りはお互いのことを大事に思いつつ思いやりの方向が噛み合わずにすれ違っていそうというのが私の印象です。ここまでまとめるだけでも解釈に変遷がありすぎたので、もはや自信とかは何一つないですが、やっぱり嫌い合ってはないんじゃないかなと。
 お読みいただき、ありがとうございました。