【英語版刀剣乱舞】山姥は実在するか/国広極の長尾の刀としての自負
この記事は英語版刀剣乱舞に関する第三弾、前回の山姥切特集(?)の中編です。よければ合わせてお読みください。
これまでのまとめ
ソハヤノツルキ:写し→replica、fake blade
「坂上宝剣の写し」→「a replica of a greater sword」「the fake blade」
蜂須賀虎徹:贋作→fake/本物&真作→genuine/本当の→ture
「本当の虎徹」→「a ture Kotetsu」
長曽祢虎徹:贋作→forgery、fake、confeit/本物→real
「長曽祢虎徹の贋作」→「the fake of Nagasone Kotetsu」
「本物(の虎徹)」→「real Kotetsu」
山姥切国広:写し→copy、reproduction(手紙・修行後)、me(長期留守後)/偽物→fake
「山姥切の写し」→「a copy of Yamanbagiri」
「偽物なんかじゃない」→「not a fake」
内番の「山姥切」→「the original Yamanbagiri」
「写しは、偽物とは違う」→「Not fake. Although I am a copy」
山姥切長義:偽物くん→forgery(刀帳・手合わせ)、faker(回想)
「俺こそが長義が打った本歌、山姥切」→
聚楽第優「I am the original Yamanbagiri, created by Chogi's hand.」
通常入手&刀帳「I am Yamanbagiri, the original Touken created by Chougi's hand.」
テキストについては日本語版Wiki及び英語版Wikiにお世話になっています。なお英語版Wiki、日本語版テキストも記載があるのですが、ちょいちょい誤字脱字があるようなので、うっかりコピペして間違えてたらすみません。
引用に関しては大体
のような順番で表記します。和訳はGoogle翻訳やDeepL翻訳を参考にしつつ、単語の違いが分かりやすいように直訳やカタカナ語を多用しています。あまりあてにしないでください!
猫殺しと山姥殺し~山姥殺しは何を殺した?~
「呪い仲間」「猫斬りと山姥切」のタイトル訳について
回想54「呪い仲間」は、南泉&国広の回想です。南泉は長義が国広以外に回想を持っている唯一の相手であり、回想55「猫斬りと山姥切」では長義にも同じ「呪い」のキーワードで絡んでいます。これらのタイトルが興味深い翻訳になっているので、回想56&57「ふたつの山姥切」も含めて並べてみます。
「呪い仲間」→Two Kinds of Curse(2種類の呪い)
「猫斬りと山姥切」→Cat Slayer and Yamanba Slayer(猫殺しと山姥殺し)
「ふたつの山姥切」→The Two Yamanbagiri(2つの山姥切)
もともと「呪い仲間」は「呪い仲間かと思ったけど呪いより厄介そうだなあ」→呪い仲間ではない? という内容でしたが、英語ではこれが「2種類の」呪いとして、「種類は違うけど、二振りとも呪われている(ようなもの)」というニュアンスを感じるものになっています。そして55と56&57で同じ「山姥切」だったものが、55では猫斬り→Cat Slayer(猫殺し)に合わせて「Yamanba Slayer(山姥殺し)」という表現になり、56&57の「Yamanbagiri(山姥切)」とは違う訳になっています。
個人的に気になるのは、回想55の「山姥切」が「Yamanba Slayer」と訳されることで「ふたつの山姥切」とタイトルがやや離れた代わりに、「呪い仲間」のタイトルに「Two」が入ることで「呪い仲間(Two Kinds of Curse)」と「ふたつの山姥切(The Two Yamanbagiri)」がやや近い印象になっていること。これによって、回想55「猫斬りと山姥切」からではなく、回想54「呪い仲間」から回想57「ふたつの山姥切」までが一連の物語であるという印象が、日本語版以上に強くなっています。言い換えると、ふたつの山姥切に関して南泉という存在の重要性が増して見えます。
「2種類の呪い」というタイトルを信じれば、南泉とは種類が違えど国広もまたある意味で呪われている。
南泉は長義も化け物を斬って呪われ、心が化け物になったんだろうと言う。
その場合、長義の呪いは南泉の呪いと同じ種類のものなのか?
国広の呪いと同じ種類の可能性もあるのか?
回想55 Cat Slayer and Yamanba Slayer
そんなことを思いつつ実際に回想55を見ていきます。
南泉の猫語化しているセリフについては、私が推測した元の単語を後ろに(※)で追加します。
特筆すべきは長義の「斬ったものの格の差かな?」に続く「猫と山姥」が「a cat and Yamanba」で、「Yamanba」に冠詞「a」がついておらず、大文字で始まっていることです。
「and」で結ばれた名詞について、それが別々のものを表す場合は、原則両方に「a」をつけます(※単数形なら)が、ここでは「Yamanba」にはついていません。また、文中で書き出しが大文字になるのは基本的には固有名詞です。固有名詞なら冠詞がつかなくても不思議はないのですが、「Yamanba」が固有名詞ってどういうことなの??
「Yamanba」がもし固有名詞なら、「猫と山姥さん(類例:犬と田中さん)」みたいな言い方をしていることになります。英語圏に「山姥」の概念がないからこんなことになっているのか? とも思いましたが、鬼丸国綱の顕現台詞などで「鬼」が「an oni」として普通に可算名詞で扱われていて、別に大文字になったりもしていないので、ここでの「Yamanba」は本当に謎です。「山姥」と言う名の何か、概念的なものを指していると思わざるを得ない。
その後、日本語の展開通りとはいえ、長義は「I mean, I did slay monsters.(俺は化け物を殺したと言っている)」として殺した対象を「monsters(化け物)」と言い換えています。こちらは複数形なので明確に可算名詞です。つまり長義は「山姥という名の化け物達」を殺したと言っている??
もともとこの回想は、日本語でも「猫斬ったオレ」「化け物斬ったお前」と南泉は「オレとお前」の話をしているのに対して、「化け物も斬る刀」として長義は「刀」の話をしているというズレがあります。
日本語で「化け物斬ったお前」も呪われたんだという南泉を、「かわいいだけだよ」とかわしている長義は、英語版でも「…That’s too cute to take seriously.(かわいすぎてシリアスに受け取れないな)」というかわし方をしている。
シリアスには受け取れない、つまり「冗談にしか聞こえない」と長義は言っている(多分)。
日本語では斬った主体を「俺/お前」「刀」でずらしていた部分について、英語版では斬った対象を「山姥という名の何か」という言い方をすることでずらしているのではないか? そうすることで、南泉と長義は「違う」ということを表しているのではないか。
日本語「化け物も斬る刀」というのは国広が本丸ボイスで言う「化け物斬りの刀そのもの」に沿った表現です。つまり長義の微妙な表現は、直接的に「俺は化け物を斬った刀だ」と言っているというより、間接的に「俺は国広が『化け物斬りの刀』と言っている刀だ」と言っているように見える。
また、英語版では国広の本丸ボイスである「化け物斬りの刀そのものならともかく~」にはテキストがないので、この「国広が言っているのは俺のこと」という表現を英語でもするために、国広の内番の「山姥切」が「the original Yamanbagiri」と訳され、監査官入手時の「I am the original Yamanbagiri」で対応しているのではないか。
長義はおそらく、山姥を斬っていないし、それを自覚している。日本語のこの感触は、英語版でも残っています。
国広の修行の手紙 「山姥斬りの伝説」
すみませんこの訳が書きたかっただけです。「主へ」系はみんなこの出だしだとは思うんですが、普段「あんた」とぶっきらぼうに呼んでくる国広がいざ修行に出たらちゃんと「主」と呼んでくれるのはかなりグッとくるものがあります。(修行前は今のところ審神者就任五周年以外では呼んでくれません)(極めると出陣の度に「主の命とあらば」って言ってくれる)
「山姥切の写しとしての評価」が「Yamanbagiri legend(山姥切伝説)」になっています。日本語版とはニュアンスが違って見える部分ではないでしょうか。日本語版では「山姥切の写し」がひとつながりのままですが、その部分が「写し(コピー)だという目で見られるのが嫌だ」「山姥切伝説から自由になりたい」という風に分解されています。
さらに「legend」は単に「伝説」という意味だけではなく「(メダルなどの)銘」という意味があります。
この場合の「銘」はどちらかといえば「称号」、つまり「山姥を斬った刀に与えられた『山姥切』の名」に相当すると考えられます。また、「自分の評価で独り立ちしたい」という部分がないので、国広のコンプレックスは直接「本科(写し)」に向いているというより、「『山姥切』と名前にあるのに『山姥斬りの伝説』が無いことを気にしている」という印象が強くなっています。
山姥切という名前なのに山姥を斬っていないことなんて関係ないくらい強くなりたい。それが山姥切国広の願いだった。
ほぼ直訳です。
二通目に入ります。
ここで初めて、国広は「写し」について、「作成の手順を模倣した」というニュアンスのある「reproduction(再現品)」という表現を使います。国広が普段使う「copy(複製品)」やソハヤが使う「replica(模造品)」に比べると、日本語の「写し」に一番近いのがこの「reproduction」と言えます。
ここでの使い方を踏まえると、国広の言う「a copy of Yamanbagiri」は「山姥切の複製」的なニュアンスが強かったんだろうかという気がします。だからこそ、時には伝説が無い自分を「fake(偽物)」だと自虐することさえあった。
また、前回記事でも少し触れていますが、国広が「長義の刀(the Chogi sword)」という表現を使うのは、伝聞形のここだけです。このことから、国広は修行で話を聞くまで自分の本科が「長義の刀」だということ自体を知らなかった可能性がある。
(2024/4/20追記:この手紙の「長義」のつづりを「Chougi」と書いていましたが、正しくは「Chogi」であることを確認したため修正しました。これは長義のキャラクター名「Yamanbagiri Chougi」とは違う表記ですが、国広が使う「本科」と長義が使う「本歌」の表記違いを「Original」で訳し分けることができないため、長義の名前のローマ字表記で違いを再現していると考えられます)
「real(リアル:現実の、本当の)」は長曽祢虎徹が「本物の虎徹(real Kotetsu)」の訳として使っている単語です。つまり、「存在感を食ってしまったようなものだ」は「俺の方が本物ということになってしまわないか?」というニュアンスになっています。
3通目に入ります。
この手紙の中で、日本語では「伝説」で統一されていた言葉が「legend」以外の3種の言葉で訳し分けられています。
俺が山姥を斬ったという伝説、本科が山姥を斬ったという伝説
→two versions of the tale(2種類の物語)
人間の語る伝説→ telling a story(物語を語る)
山姥斬りの伝説→the Yamanba stuff(山姥のこと)
「tale」と「story」は「物語」なのでまだ分かりますが、「stuff」に至っては「お話」ですらありません。「the Yamanba stuff」はどちらかといえば、「山姥の存在」というようなニュアンスになるようです。
あまり自信がありませんが、つまり「山姥を斬ったかどうか」以前に「そもそも山姥なんてものが存在するかも分からないのに」という展開をしているようなのです。
しかもそこで使われているのは、回想55で長義も「呪い」を笑い飛ばすときに否定する方向で使っていた表現「take ~ seriously(真面目に受け取る)」です。化け物に呪われるなんて話真面目に受け取れないと言う長義、山姥の事を真面目に受け取っていたのがバカみたいだと言う国広。
つまり回想55の長義と国広の修行の手紙は、両方とも「山姥なんて実在しない」という話をしているのではないか?
長尾の刀として、長義の写しとして
話は少し変わりますが、修行の手紙3通目では、日本語との大きな違いとして「写しがどうの」がなくなっています。
さらに「本当に大事なこと」は「アイデンティティの中で確かな部分(an unshakable part of my identity)」となっていて、全体的に「『山姥切』や『写し』をどうでもいいと思った」という印象が薄くなっています。
日本語でも「悩んでいたのが」馬鹿馬鹿しくなった等の表現から、「山姥切」や「写し」についてどうでもいいと思っているわけではないという解釈はできるのですが、英語ではさらにそう読みやすくなっています。
詳しくはこちらをどうぞなのですが、もともと国広極には長義に寄せたと思われるポイントがかなり散らばっています。その中でもいわゆる「本歌取り」と取れなくもないのが、修行の手紙3通目「俺は堀川国広が打った傑作」という表現です。これは、国広がここでしか使わない「~が打った」という表現によって、長義の名乗り「俺こそが長義が打った本歌」によく似た表現になっています。
しかし、英語版では修行の手紙自体にはそれっぽい表現はありませんでした……が、もしかして長義をリスペクトしたのかな? というテキスト表現は、むしろ英語版の国広極のほうが多かったです。
修行帰還時
日本語では修行の手紙で「悩んでいたのがバカバカしくなった」とありましたが、英語版ではその「悩むのをやめた」に類する表現が修行帰還時にスライドしています。そして、「Being a reproduction(自分が写しだということ)」ではもう悩まない、写しであることを受け止める方向で吹っ切れたことが分かります。
さらに、「My role as a Touken(俺の刀剣としての役目)」の表現。これは修行前の刀帳「as a copy of Yamanbagiri(山姥切の写しとして)」に似た表現であるとともに、「刀」の訳語が「Touken」になっているというポイントがあります。
実は、刀剣乱舞内ではどうも使われていないようですが、「刀」をローマ字で訳す場合は「Katana(カタナ)」が一般的だそうです。
また、他の刀帳を見ても「刀」はほとんど英語の「sword(剣)」に訳されていて、ローマ字の「Touken(刀剣)」は珍しい表現です。
実際、国広は修行前の刀帳では自分のことを「The sword」と表現しています。しかし、長義は名乗り・刀帳ともに「Touken」で統一されていて、「sword」を使いません。
このため、ここでの「Touken」という表現はあえて長義の表現に重ねてきているように見える。もしそうなら、この「My role as a Touken(俺の刀剣としての役目)」という表現だけでも、国広の意識が「山姥切の代わり(偽物)」から「長義の写し(本物)」に変わったというニュアンスが見え隠れする。
山姥切国広極 刀帳
日本語版では一段目はほとんど表現の変わらない刀帳ですが、英語版では大きく変化しています。前々回の記事で修行前の刀帳には触れていますが、ここでは比較のためもう一度掲載します。
元主に素直になってる?
まず英語版は「長尾顕長の依頼で」という部分が修行前は「the order(命令)」いうやや高圧的なイメージのある訳だったものが、日本語に近い「the request(依頼)」に変化しています。また、「足利城の」という形容詞もついていたり、それが「堀川国広が打った傑作」に当たる部分と一体化しているなど、「足利城主長尾顕長の刀だったというのも俺にとって大事なことだ」というニュアンスが強調されています。またそこから遡って考えると、修行前は「俺なんかどうせ山姥切の代わりなんだ」という拗ねた感情のせいで元主に素直になれなかったのか? という雰囲気があります。
おそらく日本語でも「大事なこと」というのは「刀帳で言ったこと全部」なのだと思いますが、2文に分かれているせいで、手紙にも書かれていた部分のみが大事に見えてしまうところが、英語版では文章をひとつにするという変更によってその解釈の余地が消されています。
「堀川国広が打った」という本歌取り表現
さらに「国広の傑作」についても表現が大きく違います。
「forged by(~によって鍛刀された)」は一般的な表現ではありますが、これも修行前の国広が使っていなくて、長義は刀帳2文目で使っている表現です。国広極は、長義と同じく2文目でこの表現を使っています。
また、簡単な辞書では「masterwork(マスターワーク)」を引くと「masterpiece(マスターピース)の類義語」としてマスターピースに転送されてしまいますが、
こちらの回答を参考にすると、「マスターピース」は「数多くの批判(批評)に耐えて、その作家のキャリアの中でも代表作と評価された作品」で、「マスターワーク」は「マスターランクに相当する十分なスキルがあると証明するために作られた作品」だそうです。
つまり、既に認められた作家の代表作とされるものが「マスターピース」、作家が仕事をしていく上で実力を証明するために作るのが「マスターワーク」という違いがあるようなのです。
これを参考にすれば、修行後の「国広の傑作(マスターワーク)」は、長義も国広も「山姥切」と名がつく以前、写しが打たれた時点での「堀川国広が巨匠として認められるきっかけになった傑作」のニュアンスなのではないか?
3/26追記:その後、もともとは「masterpiece」のほうが卒業制作(=師匠の影響が見える作品)的なニュアンスで使われていたが、「masterwork」と混線して現在はメジャーな意味が逆転したというような流れがあるらしいという情報を頂きました。この混線によって辞書では単に同義語として転送されるという処置になっているようです。なんだか「山姥切」の混線を彷彿とさせます。
また、その場合「作品」的な印象の強い「piece」から「仕事」という印象の「work」に変化したのは、「刀工国広の手で打たれたreproduction」というニュアンスをより強くしたのかもしれないとも感じました。
まとめ
というわけで
英語版では「『山姥』がそもそも実在しない」という方向で「二振りとも斬っていない」という雰囲気が強くなっている
英語版では国広極が「写し」をやめたとは解釈できず、長義を本歌取りしたと思える表現も増えている上に元主への想いも強くなったように見える
という話でした。
今回物凄く長くなってしまいましたが、まだ回想57もやりたいとは思っています。ここまでお読みいただきありがとうございました。
追記:次の記事できました