国広極はしっかり長義の写しをしている
刀剣乱舞ONLINEに関する上記記事の補足記事です。実はこれを書いてからまた国広の解釈が若干変わりました。ただ記事自体に手を加えるのが難しかったこともあり、もともとまとめたかった「山姥切国広極は長義写しをしている」という話と共にまとめたいと思います。
修行の手紙「写しがどうの山姥斬りの伝説がどうのと悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなった」修行帰還時「写しがどうとか、考えるのはもうやめた」の言い回し、そして長義に高圧的に見える態度のせいで、特に国広クラスタ以外からは写しをやめたと思われがちな国広極。
事実としてはむしろ逆で、修行によって写しに関して悩むのをやめた結果、修行前よりよほど長義の写しをしています。
修行前から似ているボス到達セリフ
修行前後を比べる前に極との共通ボイスで最初から似ているところを確認しておきます。
さすがW山姥切、殺意高くて最高だな!
となるボス到達セリフです。
微妙な違いですが「なんだろうが」の国広は多分山姥以外の化け物を(化け物斬りの刀の長義使って)倒す予定があって、「誰だろうが」の長義は聚楽第の本来のボスっぽい闇落ち国広を斬る気なんじゃないかなと私のTLでもっぱらの噂です。
真剣必殺
見ただけで変化が分かるのが真剣必殺。
そっくりまで行きませんが修行前と比べると着実なリスペクトを感じます。
あとこの画像だと分かりづらいんですが、国広は修行前はさらっとおろしてる前髪、修行後は前髪が三つ分けというか、ちょっとセットしてあるんですよね。これも微妙にリスペクトを感じます。
内番「手合わせ」特殊会話
伯仲に沼ると噛めば噛むほど味が出るのが手合わせ特殊会話なんですが、まずは長義の通常手合わせ会話を確認します。
長義は手合わせを「訓練」と言います。また、ここ以外でもそうなのですが、語尾に「~かな?」をつける言い回しを使います。
これを前提に、まずは国広修行前。
ここでも長義は手合わせを「訓練」と言います。そして修行前の国広は長義相手にろくに言葉を発せていません。
続いて修行後。
お分かりいただけただろうか。
はい。開始時も終了時も両方とも長義の口調を真似しています。
国広はここ以外では手合わせを「訓練」とは言いません。
国広極は長義に対して長義の話し方を手本にしている
考えてみれば、「ふたつの山姥切」回想56から回想57への変化もかなり不自然なのです。修行前の国広は長義に対して言葉を発すること自体がおぼつかない。比較対象として、回想6「安土の刀工」山伏に対してもまともに会話はしているものの言葉数は少ない。それが修行後、長義相手に急に流暢に何考えてるのか分からない無駄に意味深な長文を話すようになっている。何故か?
口が達者な長義の写しを本気でやり始めたからです。
ちょっと絶対これが原因だなと思ったときには長義お前鏡を見ろと正直思いました。多分国広の方は本気で悪気はないんだと思います。長義の「御託を並べようと~」とかはどういう気持ちで受け止めているんだこいつは……? というのは私も正直謎です。ただもう全力で長義の写しをしているのは間違いありません。
回想56、多分国広は何言われたのかよく分かってないと思うんですよ。長義は最後に「教えてあげようと思っただけだよ」って言うけど、そのわりに何一つまともに教える気ありませんよねっていう感じで。言いたいこと言うだけ言って去っていきましたよねっていう感じで。回想57の国広の「また話をしよう」も、多分なんか似たようなノリで国広の中では本当に会話が成り立っていたんだな……と遠い目になりました。長義くんごめんな、多分国広は本気でお前のこと尊敬してるし気遣ってる。お前を手本にしたら言い方がああなっただけで……お前らそんな面白くていいと思ってるのか?
オリジナルでないことがコンプレックス
そんな感じで解釈をしていて、つい最近思い至ったことがあります。
国広のキャラクター紹介にある「オリジナルでないことがコンプレックス」、これは多分「写しであることがコンプレックス」と解釈されがちだと思うのですが、それは違います。「写しなのが嫌だからオリジナルになりたい」なんて思ってる奴は、伝説が自分のものかもしれないと知って「本科の存在感を食ってしまった…」などという戸惑い方はしません。オリジナルと対等に認められたと大喜びすることでしょう。
この「オリジナルでないこと」という表現が鍵です。国広にとっての「オリジナル」とは何か。「本科」すなわち「長義の刀」です。
この文章は多分「長義でないことがコンプレックス」と読むべきです。
私もちょっとびっくりしたんですが、修行前の国広はどうも写しであるからには長義そのものになりたい、それくらいの巨大感情を抱えているようなのです。しかし、そこで立ちはだかるのが山姥斬り伝説が無いという壁だった。
国広はこの「伝説が無い」という壁に遮られて、「俺は山姥切という名を持ちながら、山姥を斬っていない偽物だ」という思いに囚われていた。長義の写しは偽物じゃないけど、写しは長義じゃない。そういうコンプレックスがあった。「俺は俺だ」あれは自分に重ねられる影を振り払う以上に、「長義になりたい、長義になれない」という葛藤を振り払おうとしていた、どうもそんなところがあるっぽい。
何故自分の顔を隠すのか、山姥切と比べられたくないと自ら汚れようとするのか。誰よりも自分自身が「長義とは違う自分」を認められなかったから。「山姥切の写し」としてじゃなく、俺自身の評価で独り立ちしたい。それは、「山姥切」と関係なくなることで、「長義になりたい」という思いを振り切ってしまいたかった。どうもそういうことっぽい。
(追記:回想56、長義の言いたいことの解釈はいろいろありますが、「俺がいる以上『山姥切』は俺。ならお前は、一体誰だい?」なんて問いかけにも解釈できます。無双でも長義は言いました「自分を見失うな」。いやめちゃくちゃ優しいな? 回想57の国広、長義が言いたいことを普通に優しいなって受け止めてああ言ってる可能性あるんじゃないだろうか……)
そして伝説を聞いた結果、国広は長義もまた山姥なんて斬っていないのかもしれないと思った。本科にはなれない、あんな伝説は俺には持てない、そう思っていたけど、伝説自体は両方にあった。つまり本科の強さの証明は伝説じゃなかった。そんなものなくても本科は強かった。
伝説が両方にあると知ってそういう方向に解釈する? 驚くほど長義強火担です。こいつ本当に心底長義強火担なんですよ信じて。
「どちらも山姥なんて斬っていないのかもしれない」絶対に越えられないと思っていた「山姥斬りの伝説」という壁がなくなったとき、多分国広は、そこで初めて「長義と違う」ことを受け入れられるようになった。その上で初めて、素直に「近づきたい」と思った。
前回記事で紹介した、修行の手紙にある「俺は堀川国広が打った傑作」という本歌取り表現。いやまあほんとに本歌取りか知りませんがこれだけ他の状況証拠があるので私はそういうことだと信じています。
「俺こそが長義が打った本歌」
「俺は堀川国広が打った傑作」
字数がぴったり同じです。「俺こそが/俺は」「長義/堀川国広」「本歌/傑作」という違いを抱えながら、国広はそういう自分を「長義の写し」として認めることができた。そのとき初めて「国広の第一の傑作、山姥切国広」を自然に持てるようになった。伝説がなくても、山姥切を名乗れるようになった。戦闘開始ボイス「山姥切国広、参る!」熱いものがあります。
国広極は、コンプレックスを克服してのびのびと長義の写しをしている。
それはいいんだが大事故起こしてるが大丈夫か?
困惑せざるを得ない今日この頃です。
余談:見上げた先には、いつも月があった
大侵寇、「同じ月を」にて、国広はこんなことを言います。
いや三日月来るまで1年かかったのであんまそういうイメージないんだけど……とか私も思ったんですけど、国広に関してはこの「月」をどうも長義と解釈するのもアリっぽい。
「離れ灯篭、道すがら」でも、長義は「月は雲隠れ」と歌います。これいろいろ解釈できるとは思うんですが、「ふたつの山姥切」で下敷きにされていると言われる能「山姥」にこんな一節があります。
この場合、「月」は山に住む人間の女、「雲隠れした月」はそれが妄執によって姿を変えた山姥です。なので、これを下敷きにすると「雲隠れした月」が「山姥切長義」、隠れる前の「月」が「長義の刀(本作長義)」という解釈ができる。(なお個人的には、長義が「月」のときは国広は「月影」という解釈が熱いです)
そりゃ月が本科ならいつもあるね……
少なくとも、国広が三日月に思い入れ強くなりがちなのは、月のイメージと「美しい」と形容される刀という共通点から、そもそも三日月に長義を重ねている節がある……のかも?
というお話でした。
ほんとお前、長義強火担だったんだな、知らなかったよ……。