【英語版刀剣乱舞】山姥切の名は俺たちの来歴の一部に過ぎない
この記事は英語版刀剣乱舞に関する第四弾、前回&前々回の山姥切特集(?)の後編です。よければ合わせてお読みください。
1 【英語版刀剣乱舞】写しと偽物と贋作と
2 【英語版刀剣乱舞】俺こそが「本歌」か、「山姥切」か
3 【英語版刀剣乱舞】山姥は実在するか/国広極の長尾の刀としての自負
これまでのまとめ
ソハヤノツルキ:写し→replica、fake blade
蜂須賀虎徹:贋作→fake/本物&真作→genuine/本当の→ture
長曽祢虎徹:贋作→forgery、fake、confeit/本物→real
山姥切国広:写し→copy、reproduction(手紙・修行後)、me(長期留守後)、I(回想等)/偽物→fake/本物→real
「山姥切の写し」→「a copy of Yamanbagiri」
「偽物なんかじゃない」→「not a fake」
内番の「山姥切」→「the original Yamanbagiri」
「写しは、偽物とは違う」→「Not fake. Although I am a copy」
山姥切長義:偽物くん→forgery(刀帳・手合わせ)、faker(回想)
「俺こそが長義が打った本歌、山姥切」→
聚楽第優「I am the original Yamanbagiri, created by Chogi's hand.」
通常入手&刀帳「I am Yamanbagiri, the original Touken created by Chougi's hand.」
テキストについては日本語版Wiki及び英語版Wikiにお世話になっています。なお英語版Wiki、ちょいちょい誤字脱字があるようなので、うっかりコピペして間違えてたらすみません。(一応英語原文に関してはできる限りスクショ等も確認するようにしています)
引用に関しては大体
のような順番で表記します。和訳はGoogle翻訳やDeepL翻訳を参考にしつつ、単語の違いが分かりやすいように直訳やカタカナ語を多用しています。あまりあてにしないでください!
回想57 ふたつの山姥切
国広極も I am a copy(俺は写しだ) と言っている
これは回想56についての記事で言いそびれたことでもあるのですが、「写しは、偽物とは違う」の英訳は「Not fake. Although I am a copy.(フェイクじゃない。俺はコピーではありますが)」となっていて、「写し」が一人称代わりとして使われていた解釈になっています。この言い回しは国広極でも変わりません。つまり、国広は極めてからも長義に対して「自分が写しである」ということは認めている(ただし「何の」写しとは明言していない)わけです。
ニュアンスとしては「俺は写しであって偽物とかではないんだが」というところでしょうか。
それに対する長義の返答も当然ながら変わりません。
You don't think it's faking to be going about calling yourself "Yamanbagiri," without acknowledging me?(俺のことを知らせずに『山姥切』を名乗るのは、ひとを騙してるって思わないか?)
「山姥切の名」は俺たちの「来歴の一部」でしかない
それへの返答は、日本語よりも解釈の余地が限定されているセリフのひとつです。
「名は」と抽象的に言われてしまうと、「俺達(二人or刀剣男士)にとって名というものは」という広めの解釈の余地が生まれますが、英語では「The name」と定冠詞がついているので、これは完全に「山姥切の名は」俺たちの物語の一つでしかない、という意味になります。
さらに、「物語」は「histories(歴史)」と訳されています。
単に「歴史」というだけでなく、複数形=可算名詞で扱われているので、上記ページの3番目「経歴,来歴,沿革,由来; 変化に富んだ[いわくつきの]経歴.」と考えられます。また、「histories」の例文でも「正史(=国家がまとめた歴史)」関連や「経歴」、そして「編集履歴」的な使用例がヒットするので、基本的に「過去にあった出来事の履歴」というニュアンスで使われる表現です。
国広ははっきり「俺とお前の来歴において、『山姥切』の名は一部にすぎない」と言っている。
史実を知っていればいるほど「確かに」と思う方が多いのではないかと思います。「山姥切」の逸話が本歌と写しの間で取りざたされるのは昭和以降。もともと写しの方の伝説が先という説が有力で、何より「山姥切国広のもとになった(とされる)長義の刀」の経歴にとって、「山姥切」という名の物語は昭和からの数十年程度のものでしかない。所蔵元が「長義がそう呼ばれた記録はうちにはない」と言うくらいには。
しかし、このセリフの印象は国広の手紙から受ける印象からはズレがあります。国広の3通目「伝説は両方にある」「どっちも斬っていないかもしれないくらい、人の語る伝説は曖昧」はまさしくその昭和のあれこれについての話。しかしここで「俺達の来歴の一部」でしかないと言うからには、自分たちの来歴、少なくとも「山姥切国広」が打たれてからの来歴の全体を知らなければ不自然です。
国広は原作3通目の最初に「長い年月」人々の話を聞いた、と言っています。手紙の内容は昭和の研究で分かる程度のものですが、本当は自分が打たれてからの歴史を全て見てきた上で、あえて「俺達の物語のひとつ」だけを語ったのではないか、そんな雰囲気もあります。(劇場版の黎明を参考にすれば、確認した「山姥」の実態が「歴史」と食い違うもので手紙に書けなかった等、何か思うところがあって黙っているということも考えられます。)
日本語では自己完結的な言い回しでしたが、英語版は「俺達が何によって形作られたのか」を「長義が」知ることによって「長義が」強くなると思うという台詞です。
日本語では例えば「俺は自分に山姥切の伝説があると知って自信を持ったけど、その上でそれは別に要らないと思った」という意味で、長義については特に言及していないという読みもできます。しかし英語版は、「you」という限定によってその可能性がなくなっている。ただ、
日本語版でも長義の「何を偉そうに」から、やはり「長義も同じことを思うのではないか」というニュアンスを感じ取っていそうではあります。その上で英語版長義の「lecture(講義する)」は、「そんなことお前に言われなくても分かってる」というニュアンスが強くなったようにも見えます。
国広は長義が何を知らないと思っていて、何を知って強くなると思っているのか、その具体的な内容は分かりません。ストレートに考えれば「自分が修行で知った内容をお前は知らないから……」となりますが、長義の反応は、国広が修行で知った内容を本当に知らないのかは微妙なところです。考えられるパターンとしては
長義は山姥切伝説が国広にもあるということを知らないし、国広極もそう思っている
長義は山姥切伝説が国広にもあるということを知っているが、国広極は自分が知らなかったように長義も知らないと思っている
長義は山姥切伝説が国広にもあることを知っていて、国広極もそれは分かっているが、その上で長義がもっと違うことを知って違うことに気づくのではないかと思っている
何故私が3つ目のパターンまで想定しているかと言うと
ここで「向き合う」というキーワードが出てきているのですが、回想119「こがらすとこがらし」に、刀が持つ逸話に名による混同が見られる小烏丸と抜丸(別名こがらし)が「軸が違うからこうして向き合える」という話をしているからです。二つ名と逸話が似ているだけの二振りが、軸(日本刀の父/平家の太刀)を分けなければ向き合えない、つまり別々に存在することができないとしたら、本歌と写しなどなおさら軸を分けなければ別々に顕現できないのではないか。
なら向き合った時点で、お互いを形作る逸話が違うこと、なんならお互いの軸まで分かるのではないか。(私は国広の修行の内容や長義の名乗りから、国広の軸が「山姥切」、長義の軸が「長義の刀」ではないかと推測しています。)
そこまで分かってなお「もっと大切なことがあるのだと思う」と言うなら、もう公開情報には手がかりはないだろうとお手上げするしかありません。
「the "Yamanbagi"」については回想56も参考にして頂ければと思いますが、長義のセリフ「お前が何を言おうと」の中身は、素直に考えれば「山姥切の名が自分たちの経歴の一部に過ぎなくても」「自分達を形作ったのが何であろうと」「俺がここにいる以上は、お前の名乗る『山姥切』とは俺のことだと認識されるべき」ということになります。
なんとなく、たとえ『山姥切』の名にどんな経緯があったとしても、(この本丸に)俺が居る以上、それが指し示すもの(=国広の本歌?)は俺だと思われるべきという感じが強くなってきます。
「correct」は「答えが決まっているもの(答えが一つしかないもの)」について「正しい」と言うときの単語。「正解」的なニュアンスの言葉です。
「俺がここにいる以上、お前が名乗る『山姥切』は俺のことだと認識されるべき」という主張は正しいのかもしれない。
この「かもしれない」には「may」が使われていますが、確信度はかなり低めで以下のサイトでは「50%」と言われています。
「『山姥切』と認識されるべきは長義」という回答が正しいかどうかは五分五分ということでしょうか。それは「『山姥切』は長義かもしれないし国広かもしれない」ということなのか、「長義は『山姥切』かもしれないし『山姥切』じゃないかもしれない」ということなのか? 実際問題「山姥切国広」の「山姥切」は本人の伝説のパターンもある(そのほうが有力)ので、その事実を知ってしまった国広が長義の言葉に頷けないのも当然と言えば当然です。そもそも回想のタイトルは「ふたつの山姥切」、観測しなければ決まらないシュレディンガーの『山姥切』ということなのか?
「まだ考えている」の訳「work things out」は「物事を上手く解決する」という熟語。どうにもこうにも自分が長義の写しであることと『山姥切』の号の経緯をどう処理していいか分からないという雰囲気が打ち消せません。
また話をしよう、そう言って立ち去った国広、残された長義は。
英語だと悪態つくにも意味のある言葉が出てきて本当に日本語より情報量多いなあ! と遠い目になってしまいますが、「What the」って何を言おうとしたんでしょうか?「What the "Yamanbagiri" means(その『山姥切』の意味は)」とかだったりしたら私は顔を覆ってしまいます。「You can't just…」国広には何ができないと言いたかったんでしょうか?
気になる話の続き、見せてもらえるのはいつでしょうか…。(見せてもらえるかどうかも分からないのが怖いところですが)(極同士回想か、でなければ修復完了宣言のなかった聚楽第の修復完了真エンディングか何か、ありますよね!? よろしくお願いします!!)
手合わせ特殊会話
おそらく時系列としては回想→手合わせだろうという前提で、最後に手合わせを見てみます。まずは修行前同士の手合わせ開始時。
「いい機会だ」に当たるのは「Might as well」。「それ以外に選択肢がない」というニュアンスということなので「お前と手合わせするからには、本物の太刀筋を教えてあげるしかないね」という感じでしょうか。ほぼそのままです。
興味深いのはそのあと。
本物の太刀筋→what a real blade is like
「本物の太刀筋」は「what a real blade is like(リアルブレードとはどういうものか」となっていて、「リアルな刃物」というニュアンスで訳されています。これは「レプリカ」を名乗るソハヤが刀帳で自分を指して言っている「fake blade(偽の刃)」の対義表現でもあります。ソハヤの場合そのbladeにソハヤが写しとされる理由の「ウツスナリ」が刻まれているわけで、長義も普通に考えればそのbladeに長義のアイデンティティを証明する「本作長義(以下58字略)」の銘が刻まれているはずと考えると大変深読みしたい対比です。(追記:普通に考えれば銘を持ってるはずなんですが、ゲーム内では不自然なほど銘に触れられないことから、国広の『山姥切の写し』という物語と辻褄を合わせるために隠している、聚楽第の歴史改変の影響で銘を失っているor欠けている、等の可能性はあるな~と思っています)
一方、修行の手紙「写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。」の訳でも「Wouldn't that be as if I'm more 'real' than the original, in a way?(ある意味で、俺がオリジナルよりも『本物』みたいだと思わないか?)」として「real」が使われています。
偽物くん→the forgery
ここでの「偽物くん」は、回想での「faker(いかさま師、ペテン師)」ではなく刀帳と同じ「forgery(贋作)」です。
「forgery」はよく使われる用法の例が「署名の偽造(他人の署名をする)」となっていて、これは「刀工が違う」ところに着目した表現になるのかな? と思ったりします(その場合刀工堀川国広に大変失礼ですが)。それに対する国広の答えは回想と変わらず「Not fake. Although I am a copy.」。「forgery」と言われた場合も、同義語として普通に「fake」で受けています。
Might as well 「teach」
さらにその後「教えてあげる」に使われているのは「teach」
特に何の変哲もない訳ではあるのですが、個人的には「長義から本物の太刀筋教わったら、国広も本物の太刀筋使えるのかな……」という気持ちが日本語以上に沸いてきます。
続いて極の開始時。
We’ll see who gets the beatdown.(打ち倒されるのは誰だろうな)
注目したいのは国広極「どちらの方かな?」の「We’ll see」
引用「実際どのようなときに使うのでしょうか?? 正解は 答えを曖昧にしたいとき!!!!です。」
引用「We’ll seeはYes, Noどちらも答えたくない時によく使われる言い方です。」
私が手を叩いて喜んだのは内緒です
冗談はさておき「はっきり答えたくない」というニュアンスの表現のようです。この場面なら「やればわかるさ」というところでしょうか。また、「どちら」についても特定の選択肢から選ぶ「which(どちらか)」ではなく「who(誰)」となっており、選択を回避したい感が上がっています。
さらに「beatdown」ですが、名詞として引っかかるページがこちら。
「2.ギャング団が足を洗おうとしているメンバーに加える制裁」
物騒ではありますが、この場合長義の「偽物くん」の意図を「俺は『山姥切』じゃないとか四の五の言ってないでちゃんと『山姥切(の写し)』をやれ」というニュアンスで受け取ってるのか? という解釈はできます。
しかしその場合の「どちらのほうかな?」はどういう意味なのか? 「お前こそちゃんと『山姥切』以外の本科もやってくれよ」とかいう意味ですか?
何の「訓練」?
最後に手合わせ終了時を修行前と修行後で比べてみます。
「訓練」にも国広を折る気で挑む長義が言う「実戦」は、普通に「敵との実戦」と見てよさそうです。
一方国広極の「あくまでも訓練」は、どうも決着の手前で寸止めしたように見えます。長義が「有意義な時間(some good training=良い訓練)」だったと言っているので、手合わせがserious(真剣)ではなかったということはなさそうです。手加減したか寸止めしたかしていそうな国広極が想定している「本番」は、多分長義の言う「実戦」ではないだろうなあと思わずにいられません。(極めた長義と本気の勝負がしたいとか……)
「有意義な時間だった」という長義がけっこう落ち着いていることもあり、個人的には回想57→手合わせである程度すり合わせができたのか…? という雰囲気を感じているのですが、お互いだけで通じ合ってないで主に詳細を教えてほしいところです。
英語版山姥切特集、ひとまずはここで一区切りとしたいと思います。
長々お付き合いいただきありがとうございました。