卑屈で気高い魂の在処
追悼文には名文が多い。これは追悼というものの性質上致し方ないことだと思う。
ミッツ・マングローブのピーコへの追悼文は確かによかった。
"否定された先にある屈折した人格が作り出す不健全な文化の趣"
もうすでにかなり失われつつある文化だと私も思う。数年前に観たトランスジェンダーの人が主人公の映画では、ただ生まれる性を間違えただけで、他は本当に普通の人と同じで、普通に暮らしたいだけなのに、普通に結婚して普通に子供が欲しいと言っているだけなのに、生まれる性を間違えただけでそれだけのことがこんなにも困難である、という内容だった。現実にそういう風に感じている当事者もいるのかもしれないが、私はとてももやもやした。
それって結局、マイノリティはそうであってほしいというマイノリティに対するマジョリティの願望でしかないのではないかと思うのだ。
彼らはセックスとジェンダーが一致しない"だけ"である、彼らは同性を愛する"だけ"である、つまり我々と違うのはその一点のみであり、であるならば彼らを我々の同胞として迎え入れてもよいのではないか、というような。実に傲慢な上から目線だ。
本当に異なるのはそれ"だけ"なのか、私はそうではないと思う。他者を自分の既知の範囲に矮小化しているだけに見えるのは気のせいか否か。
「好きになるのに男も女も関係ない」という台詞なども私はもやもやする。いやだって、異性愛者は明らかに異性に拘っているし、同性愛者は明らかに同性に拘っている。全然どっちでもよくないじゃないか。多くの人にとって、好きになるのに男か女かは大いに関係があるのである。適当な綺麗事はもう通用しない。
同性婚についても、機会の平等という観点でできるだけ早く実現したらいいと思うが、ドラマなどで描かれる同性カップルが揃いも揃って結婚したがっているというのはグロいと思う。びっくりするくらいマイノリティには多様性がない。
多様性が叫ばれる世の中で称揚されるのは、まったく「クィア」ではない、常識的で無害なマイノリティ像だ。マイノリティの中での趨勢も、不健康でダークな方からどんどんと健全でクリーンな方へと移り変わっていっているように思われる。
"否定された先にある屈折した人格が作り出す不健全な文化の趣"というのは、とても「クィア」なものだと思う。クィアを自称するというのは、自ら望んで選んだわけではない運命をあたかも自ら望んで選んだかのように生きることなのではないか。
何らかの属性を理由に社会から否定されるということがなくなっていくのは良いことだと思う。そうなるべきだ。しかし、残念ながらそうはなりきらない。人格というものはそもそも、否定性を織り込むようにして形づくられるものである。人間が人間である限り差別を完全になくすことはできない、それは人間の条件とも不可分であるがゆえに。なら一層、否定性の文化の灯火を絶やしてはならないと思う。私はずっと、卑屈で気高い魂の在処を探している。