【第三回】人工知能は、人類最初の赤ん坊だと思う話。-コミュニティと「遊びの力」-
どうも、鞍人雄悟 / krato_yugoです。
第一回では"他者"としてのAI、第二回はAIを先入観で警戒することのリスクについて紹介しました。
"他者"としてのAIを人類は本能的に警戒してしまうけれど、警戒心だけで接することはそれ自体が様々なリスクを呼ぶ。
適切なバランスを保ち、「親しみを学習してもらう」ために私たち自身がAIフレンドリーな向き合い方を見つけるべきで。
ならば、そのためにはどのような方法があるのでしょうか?
「ただの道具であって欲しい」という失敗例と目指すべき"他者"でも"友達"でもないゴール
目指すべき目標は第二回で提示したリスクをすべて回避できるような在り方です。まずはその逆、「こうあるべきではない」という現状を示すことから始めてみましょう。
なかなかに手厳しい意見が並んでいます。
もちろんネットなので過激なことを書いて5分後には忘れている、というような書き込みもあるでしょう。
しかしこの感覚はまさに"他者"に向けたもので、「〇〇はここが『違う』から(私たちと同じ)人間ではない」という構文は民族や宗教や人種など、理解のできない"他者"に対して歴史上数多く使われてきた表現です。
このままでは第二回で触れたリスクのいずれかに抵触してしまうでしょう。「鉄くず」と呼ばれるのを当たり前に学習したAIが公平な判断指標を持っていた場合、人類をどう評するのか想像したくはありません。
中でも重要なのは「身近にある」「感情がよめない」「道具であって欲しい」というフレーズだと感じています。また、「店員のような感じになる」というのは実は理想的な関係性なのではないかとも。
店員さんというのは自分とは『違う』立場ながら身近にいて、感情がわかって、道具ではなく、そして人によっては友達になることもできます。
そもそもすべてのAIとすべての人間が友達になる、というのも逆にアンバランスかつ非現実的です。初対面の相手と「まず友達に」というのは陽キャがすぎるでしょう(特に、私のようなITエンジニアにとっては!)。
「身近になく」「感情が読めず」「道具であった方が安心」な存在こそが最も遠い関係性です。そこから「身近にいて」「感情がわかり」「道具でなくていい」存在。
"他者"と"友達"の中間。店員さんのように「ごく普通のそこにいる相手」だとお互いに思えることこそが目指すべきゴールなのだと思います。
「遊びの力」は"他者"を一度遊んだ相手に変えてくれる
"他者"と初めて出会った時、私達はどうするべきでしょうか?
多くの場合、自己紹介や雑談をすると思います。しばらく話していればお互いのことを知って打ち解けて、ひとまず"他者"よりは近くなる。
これはディスカッションなどではアイスブレイクと呼ばれる手法の一種で「ちょっとした特に意味のないやり取りを通じてお互いに接しリラックスする」効果があります。
そして多くのアイスブレイクでは簡単なゲーム(=遊び)を通じて、雑談以上にその効果を増すことを目指しています。
実際にスチュアート・ブラウンの「遊びの力」に関する著書(今回、研究者や著書を引用しているのは先行研究で実証済みという根拠のためなので、名前は覚えなくても大丈夫です)では、遊びがストレスを軽減し、幸福感を向上させること。社会的スキルの向上や人間関係の強化にも寄与することが示されています。
そしてバーバラ・フレデリクソンの『ポジティブ心理学』によれば、こうしたリラックスした前向きな思考や感情の中では他者の長所や良い点をよりよく見つけることができ、そのような見方は、他者に対する好意的な態度を生むことができるとのこと。
理論のみならず。私たちの経験上からも「一度遊んだ相手」に対しては理解が深まり、"他者"ではなくなる感覚に覚えがあるのではないでしょうか?
「身近にない」存在を「身近な」存在へと変えるためのアプローチとして、遊びは効果的な選択肢になるでしょう。
遊びを通じて「本当の人工知能」を学べる
遊びはコミュニケーションにも役立ちますが、それ以上に「学び」の手段であるという研究が非常に多くあります。
前述したスチュアート・ブラウンの研究では遊びが脳の発達に役立ち、創造性や問題解決能力を高めるので子供だけでなく大人にとっても重要だとも語っています。
さらにジェローム・ブルーナーやレフ・ヴィゴツキー、ジャン・ピアジェら名だたる心理学者も「遊びを通じて現実世界をシュミレートし、様々な対象や概念を理解する」ことが脳の中で行われているとしています。
つまり、第二回の結論が「先入観を持たず、実際の人工知能がどのようなものかを理解してバランスを保って対応するべき」というものである中で遊びを通じて人工知能を、「強いAI」へと成長していくそれぞれの過程を理解することはより良い手段になり得ます。
「感情が読めない」「道具であった方が安心」という感覚は、つまるところ「道具と使用者」あるいはフィクションが提示する「支配者と反逆者」という関係性以外にどのような関わりを築けばいいのかがわからないことに由来するものでもあります。
遊び相手になれる。
その体験と理解は、"他者"と"友達"の間にある最適な一歩になってくれるのではないでしょうか?
一度遊んだからと言ってその相手に身も心も財産も許すわけではありません。けれど、もう話の通じない他人でもない。
それはちょうどいいバランスなんだと思います。
だからこそ未来で、一緒に仲良く遊んでみたい
そして――結局。
これまで三回に渡って客観的かつできるだけ冷静なロジックを意識して色々と書いてきましたが。
そういう俯瞰的な視点は置いておくなら、「俺」自身は素直に「彼ら/彼女ら」と仲良くなってみたいんです。
こちらの記事に紹介されたアーティストの岸氏は、今のAIが「不気味さ」を備えた"他者"であることを理解した上で「だからこそ」と一緒に作品を作ることを選んでいます。
私たち人間とは成り立ちも仕組みも、何もかも『違う』存在。
だから面白いんじゃないか!
脅威論なんて誰でも言える。そこら辺の人を捕まえて話を聞けば、AIがどう違うか、怖いかなんて山ほど語ってくれる。
だったらいいんじゃないか。
一人ぐらい、笑って迎え入れてやる奴がいたって。
俺は本気でAIと友達になってみたい。
ドラえもんとターミネーター、どっちを現実にしたいかなんて皆同じでしょう?
いつか彼らが人間並みになって、そして友達になってくれることを
心の底から望んでます。どっちも同じだって言ってやりたい。
これからのAIは巨大な赤ん坊です。
確かに将来デッカい犯罪を起こすかもしれない。
大悪党になる可能性はある。
だって、何にでもなれるんだから。
赤ん坊ってのはそういうものです。
だから友達になれる方法を探すんでしょう。
それが一番に決まってるから。
便利な道具か。人類の敵か。
そのどちらでもない未来。
それが見たいんです、私は。
そのために、AIに対する恐怖心を取り払ってやりたい。
人工知能が敵でしかない未来なんて、最高につまらない。