NSCに行ってた頃の話④

不作の期。

そう言われるのも仕方がない。その年に行われたM-1グランプリ2006、2回戦を突破する現役のNSC生は1組もいなかった。

2年前、現役NSC生で準決勝に進出したオリエンタルラジオは、既に超売れっ子の仲間入りをしていた。
私も当然、あの売れ方、ポジションに憧れていた。ここで抜け出すと売れる、正確に言えば吉本が売ってくれるはず。

しかし、我々のコンビは1回戦で敗退をした。もう、言い訳のしようがない。自分には才能がない、恥ずかしい、漫才なんて見たこともない振りをしたかった。

あのときの3回戦進出はなんだったんだ、アマチュア活動をしていた1年前も2回戦にはいけたのに。

当時は全部審査員のせいにしていたが、冷静に分析するとわかる。ネタ見せのために量産しなければならなかった新ネタは、明らかに質が落ちていた。カッコつけて新ネタで挑んだからあんなことになってしまった。1つのネタに対する練習量も足りなくなっていた。

簡単に言えば「面白くなかったから」落ちたのだ。

ただ、他のコンビが3回戦にいかなくて正直ホッとしていた。M-1は人生を変えることができる、NSC生も例外ないが、全員が1回目のチャンスを逃した。自分だけが経験している領域に、まだ誰も到達していないということにすがって、なんとかまだ続ける意志を保てた頃だ。


どん底まで落ちていたが、すぐに事態は好転した。

不作の期と言われていた29期の育成方針に、テコ入れが入った。各講師が、育成すべき生徒を選抜してネタ見せを行う制度がスタートしたのだ。

過去、選抜メンバーでネタ見せを行っていた講師は何人かいたらしいが、それを全講師が同時に行うのはどうやら大阪NSC初めての試みだったらしい。Aクラスが存在しなかったが故の特例だ。

先輩たちからは羨ましがられたが、同じ講師のネタ見せが月に何度もあるということは、それだけ新ネタを作らないといけないということだ。

もちろん、同じネタをブラッシュアップさせていくやり方もあると思うが、滅多に褒められることもないので、次々と新ネタを繰り出すしかなくなる。

そんな辛さは確かにあるが、理不尽なルールや制度ばかりのNSCの中では、とてもいい制度だったと思う。各講師が、自らの嗜好に合うネタをしているメンバーを選ぶ。生徒たちは、ちゃんと自分達のネタを理解しようとしてくれる講師にネタを披露出来る機会が増える。

「ボケの方向性がぶれないこと」をお笑いの基本とするなら、1人の優秀な講師に、ぶれずに育ててもらう方が絶対にいい。

さて、突然発表されたその制度に基づき、各講師の選抜メンバーが貼り紙で発表された。我々のコンビは4人の講師の選抜クラス入りとなった。つまり、半分の講師が我々を選んだことになる。

明らかに選ばれた数が多かった、もちろん誰にも選ばれていない生徒も多い。同期がざわつく。
「グングニル多くない?」
名前も知らない同期が、我々のコンビ名をつぶやくほどだった。

そういえば、初めてコンビ名を書いた。


伏せている理由もなかったが、自分が名乗っていたコンビ名ほど恥ずかしいものはないと私は思っている。

なんだよ、グングニルって。

おそらく、当時の私は浮かれていた。
嬉しかったからこれだけ明確な記憶として残っているのだろう。

しんどいことや、腹が立つことの方が多かったはずなのだが、あの頃の記憶を呼び起こすと、あれ、もしかして芸人の道を諦めなくても良かったのではないかと錯覚するほどに、うまくいっている自慢のようなエピソードばかり思い出す。

何回目かの中間発表会ではトリも務めた。大阪で行われた東京NSCとの東西対抗戦にもメンバーに選ばれて、勝利した。選抜クラス内で行われたトーナメントでは優勝もした。

冬になる頃、失った自信は徐々に取り戻していて、とにかく選抜に選んでくれた講師に見せるべく、ネタを書きまくっていた。

当然、講師が評価しているのだから吉本の社員からも声をかけられる機会が増えてきていた。

明るい兆しが見えてきたところで、事件は起きた。

私は性格上、とにかく怒られたり批判されるのが嫌いだ。せっかく期待してくれているのだから嫌われたくない。そんな思いから私は講師ごとに、ネタを作り変えていた。指摘されたところを直しつつ、ある講師のネタ見せではぶっ飛んだ展開をさせ、違う講師のネタ見せではストレートなボケを重ねるなどしていた。

特別講師として、千原ジュニアさんがたまに来てくれていたのだが「はいどーもて、なに?」みたいなことを言われてるコンビがいるのを見て、それまでめちゃめちゃ大声で「はいどーもー!」と叫んでいたが、すぐにそれをやめるなどもした。
(ジュニアさんの話は別で書こうと思う)

結果、元々1本のネタがいくつもの形になる。
これが、ダメだった。

信頼出来る講師の言うことだけ聞いていれば、ぶれないネタがきちんと出来ていたかもしれないが、いくつものパターンを生み出してしまったことで、私は一体何が面白いのかわからなくなってしまい、ネタ作りに迷いが出てきた。

ネタは全て私が書いていたのだが、その迷いは段々と相方に怒りとなって顔を出す。

ネタ作りに詰まると、私は意味もなく相方を呼んだ。とにかくお前もアイディアを出せと言うが、そのアイディアを採用することなどなかった。とにかく自分がネタを書いている時、自由に行動されることが許せなかったのだ。これは、ネタを書いてる方あるあるだと思う。

せめてギャグを考えろ、先輩に気に入られるように振る舞え、などネタが書けなくなるほど、相方への当たりは厳しくなっていった。

そんな時、東京NSCとの合同ライブが、今度は東京で行われることになった。遠征するメンバーは、全組ネタ見せを行って10組程度に絞られる。

選ばれて当然の気分で、ネタ見せ当日、私はNSCがあるゲームセンター近くで相方を待っていたが、来ない。集合時間が刻々と迫ってくる。


このままだと東京に行けない、怒られるのはもっと嫌だ。そんな想いで何度も電話をかけるが、相方は出ない。

結局、そのまま相方は来なかった。
とにかく謝ろうと、ネタ見せの会場に行き、事情を説明すると、怒られるというよりは呆れられた。
私は悪くないアピールのため「見学だけでもさせてもらえないでしょうか?」と掛け合ったが、断られた。

結局、相方はただの寝坊だった。
「あんたら東京に行かせるつもりやったのに」と後からきちんと2人で怒られた。

この寝坊きっかけで、相方との仲は最悪になった。

続いて、私も寝坊する。
よりによって、島田紳助師匠が、DVD企画で現役のNSC生に講義をするVTR収録の日だった。

人生最悪の日になった。

このまま、卒業にひた走るだけなのだか、終わるのがもったいなくなってきたので、次から、尊敬すべき同期たちとのエピソードについて書こうと思う。

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