さだまさしカウントダウンin国技館
年越しは、さだまさしカウントダウン〜年の初めはさだまさしへの流れが恒例となりました。昭和最後のコンサートとなった東京ベイNKホールでの『十五周年漂流記』以来、久しぶりにカウントダウンをやろうと思ったら、今時誰も彼もが年越しライブをやるので、東京近郊で使える会場がない。どこかにないか、というので探してみたら一箇所だけあった。それが2007年だったか、2008年だったか。初場所の準備があるので、1月の第2日曜日が早い日付だと貸してもらえず、東京国際フォーラムや名古屋センチュリーホールで開催されたこともありましたが、繰り返すうちに相撲協会も協力的になったか、仲のよい芝田山親方(元横綱大乃国)が出世したためか、今ではすっかりこの会場が定着しました。
国技館には欠かさず足を運んでいますが、東京国際フォーラムで行われた時、インフルエンザで泣く泣く諦めた時がありました。ちょうど元日を挟んで1週間隔離生活を送らざるを得なかった、人生で一番情けない年越し。年明けすぐの1月5日から入院が決まっていて、外出許可が出た当日、4日の夜に病院に到着しました。看護師さんに惨状を話すと「ああ、入院に間に合ってよかったですね」ちっともよくないです。
さだまさしが「俺、いつまでできるのかな」と先行きに不安を漏らすこともありましたが、個人的に僕自身がいつまで行けるかの方が心配です。母親が年齢を重ねて、家を空けるのに不安を覚えるようになり(他に家族はいたけれど)、早晩行けなくなるのはやむを得ないか、と思っていたら、コロナ禍での中止(無観客の東京国際フォーラムからオンライン配信)を経て、翌年母が病で逝ってしまいました。お母さん、僕はさだまさしのコンサートに行けなくなったってよかったんですよ。
母も、そして母の妹である叔母もさだまさしのファンでした。「さだまさしカウントダウンに行きたかったけど、一緒に行ってくれる人がいなかった」と言っていたという話を母から聞き、東京国際フォーラムであったコンサートのチケットを2枚入手しました。「お母さんか叔母さん、どっちか僕と行く?」と訊いた筈が、どこでどう間違ったのか「母と叔母が2人で行く」ことになってしまいました。「いや、僕も行くからどっちか諦めてくれ」とも言えず、ちょうどその日が僕の誕生日だったので、「僕は誕生日は自分を生んでくれた母に感謝する日にしている」という永六輔さんの言葉を胸に、何とか自分を納得させました。結果的に、これが生前母が最後に訪れたさだまさしコンサートになりました。叔母も母より先に旅立ちました。僕は親不孝な息子で、孝行の真似事にもならなかったけど、さだまさしとは切っても切れない縁があるんだな、とつくづく感じています。
先日、医者からの帰り道で、重そうな荷物を抱えた老婦人とすれ違いました。かかりつけ医で自宅がすぐなので一旦家に着いたのですが、どうしても気になったので引き返し、追いかけて「持ちましょうか?」と声をかけたら、「あなた、だってさっきすれ違ったのに、わざわざ戻ってきたの?」とえらく感激されてしまいました。「あなたのお母さんは、立派に育てたのねぇ」と涙を流すほど。母の話を持ち出すのは反則です。今から母親に返したいことがあっても間に合わず、虚無感に襲われることばかりなのですが、残された人間が生きる意味は、そんなところにもあるのかもしれません。
帰り道は、例年通り両国橋から東京スカイツリーを望みます。昨年、iPhoneを7年半ぶりに買い換えました。夜景モードの鮮やかさと、ツリー中央部に表示される「Happy New Year!」の文字まで読み取れるズーム性能に、時代の流れを感じます。