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ニュースにぺちゃくちゃ

向かい合ったテーブルの下で相手の足とぶつかった時、咄嗟に謝ってしまう人は詐欺師のカモらしい。カモかどうかを見定めるためにやるから、正確にはわざと足をぶつけた時。

わかる。私は5億パーセント咄嗟に「すみません」と言ってしまう。
最近はマシになってきたと思いたいけど、基本的に騙されやすいし流されやすい。

自己犠牲というと聞こえがいいけれど、私の場合は自責に留まることで本当の問題から目を逸らし、解決から遠ざかったところから事無きを得、自己責任と落とし込み、そうすることで同時に自分を甘やかしてきた。私が悪いんです、自分の責任ですと言っておけば、ほとんど多くの場合周囲は安心して去った。
そのくせに、他責の人の餌食になると理不尽だと嘆く。立ち向かうつもりがないから、私に矛先が向くのは当然のことだったのに。パズルみたいなもので。

実際、ある時までそれは自分の長所だと本気で信じていて、まあ長所と短所は表裏一体ではあるから、今もそれはあなたの長所だといってくれる人もいる。

一方で、自分の尊厳を軽んじることは、自分の両親や、私を大切に思ってくれる人の気持ちを踏み躙ることで、つまり、私がテーブルを挟んで向かい合った他人に「すみません」と謝ることは、私の両親に失礼なことだよ、と人に言われたことがあって、それ以来考え方を変えたいと思うようになった。

最近、どこだかの市の町長のパワハラ・セクハラのニュースが目に入る。
死ね、殺してやる、パートのおばちゃんと同じ価値しかないぞ。等々。
その中に「お前が死んだら保険金は〜云々、中略、お前の嫁が使うのか?お前の娘が彼氏とハワイ旅行に行くのに使うぞ、きっと」という、本人にとどまらず家族を揶揄する発言があったことが明らかになった。
言われている本人はその場では強く反論はせずにいた。私が同じ立場でもそうする。
でも多分、あとからはらわたが煮えくり返って、お前ふざけるなよと反論しなかったことを後悔するかもしれない。録音をその場で再生して脅してでもその場で謝罪させればよかった、と思う。思い返せば、そういう類の悔いは多い。

大人になるということは、つまるところ尊厳を理解するということに等しい。

その意味で、例の町長のあまりにも幼稚な印象は、そのあたりの欠如じゃないかと感じる。

相手の過去や、時間や身体、趣味や家族やその人を取り巻いて拡がる、こちらには想像できない範囲の中の全てにその人の尊厳がある。
もちろんこちらにも。だから、簡単に自己犠牲を払ってはいけないし、エネルギーを消耗してでも時には抗わなければいけない。

ぶつかるのは怖いし面倒だけど、まずは小さなことから自分と私を大切に思ってくれる人の尊厳を守る意識を持ちたいと思う。
いつか向かい合うテーブルの下で足をぶつけられても、もう絶対に謝らない。

あと、人生で一度だけ遭遇した「ぶつかりおじさん」の足早に去っていく背中に「クソジジイ!」と叫んだこと、あれは私にとっては進歩。




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