“Hang in there, buddy.” “Keep going." (ジェンダー・アイデンティティとは何か再考 5)
最近それぞれ、別の人からもらったことば。日本語に訳すと、通常は「励ましの声がけ」とか「応援メッセージ」になるだろうけれど、私の英語感覚では、なんだかそれだと、しっくりこない。突き放された気持ちに、ほんの少しはなるから、かな。この二つには、そういうのとは逆のニュアンスがある。
なぜかを考えると、同じ目の高さから同胞として伝えるものだから、ではないかと思う。日本語だと、むしろ私は上からの感じがするので「逆のニュアンス」と書いたけれど、欠落まではしなくても「同じ目の高さから、同胞として」のニュアンスが薄まってしまう、というように私は感じる。
それと、私はバディという声がけが好きだ。男性的な単語だとは思うけれど、トランスマスクのノンバイナリーたちは、私によくこの呼びかけを使う。それは、ある意味、当たり前と言えば当たり前なんだろう。
アイデンティティは、こういうことによっても培われるのだと、よく分かる。自分が何者かを言語化していく中で、同じようにそうしようと奮闘している人たちに声をかけて、意見を聞いて、自分の意見も伝えて、そうして時には反発しながらも、共に進もうとすることによって。
だから、アイデンティティは、これまで述べてきたように、人と自分との差異を考えることから出発する、自分のための、そして、草の根運動のための、そうして、やっぱり世界を変えようとする運動のためのものだ。
もちろん、もしかしたらトランスマスクのノンバイナリーにとってのアイデンティティというのが、そういうものなのかもしれない。性別が二元的ではないとしながらも、それでも敢えて男性的であることも選択する、そういうある意味、政治的なカテゴリーだからだ。
しかし、私は、トランスジェンダー男性に対しても、同様の気持ちになることは多いし、実際に、人生の半分以上を、彼らと共に、あるいは傍で歩んで来た。トランスマスクは、トランスマスキュリンの短縮系だが「生まれた時には女性だと判定されたけれど男性方向にトランジションする」という意味なので、やっていることはそんなに変わらない。単にアイデンティティが違うだけで、ジェンダー・アイデンティティは1000コあると比喩されるくらいあるんだし、そういう意味では、アイデンティティがトランスジェンダーでもノンバイナリーでもジェンダークイアでも同類。
だから、やっぱり、私は彼らに声をかけ続ける。
“Hang in there, buddy. Keep going!”
今回は、単なる読み物的に止まりましたが、アイデンティティ論としての通し番号を振っておきます。
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