翻訳の不可能性とは何か
私はこれまで、言語は直訳が効かない、とか、直訳すると意味不明になる、とか、それに類似することを述べてきました。
これは、言語とは、その文化的背景に依存して存在するため、です。このことを私自身の詩の書き方を例に示してみましょう。
まず、私の誕生日に関する日本語の詩を引用します。
「誕生日なんて、大嫌い」
誕生日は、私にとっては、自分の生まれた瞬間に、家族が失望した日。私のジェンダーのせいで。
よくわからなかったけれど、誕生日は、私には、妙に誰かに側に居てほしい日。でも、不思議なことに、それが自分の思いとは裏腹に、難しい日。
何かを大嫌いだと、人が言う理由は様ざまだ。本当に嫌いな時には、大を付けないのかもしれない。大という形容には、何か「うらはらな」含意が込められているように思う。
私が誕生日は大嫌いだと言う時の、その大には、本来はそうではないはずであるのに、私にとってはそうであること、に関する気持ちが込められていると思う。
つまり、がっかりしているとか、悲しいとか、寂しいとか、やるせ無いとか、そんなはずじゃないのに悔しいとか、そんな気持ち。
いつか、誕生日を、自分のことを無条件に愛してくれる人と一緒に過ごしてみたいと切望する一方で、そういう想いが、依存や支配と隣り合わせであることを、すでによく知っているし、詮無いこと、なんである。
さて、英語で、誕生日の詩を書くと、以下のようになります。
“My Birthday is the Worst Day in my life, Always”
I had thought my mom had already died.
But yesterday, I got an email from her:
"Happy birthday.
My elder sister passed away from lung cancer,
and I'm miserable.
Have a good life."
What the Heck?
Last year, the after my birthday, I got another email from her,
but I had forgotten it until yesterday:
"Happy belated birthday.
My best friend passed away and I was so shocked.
Also, your neighbor friend died, but I don’t know why.
Have a great life."
What the Hell?
Basically, my birthday is the day my family is disappointed because of my gender.
I was expected to be born a boy, but I was a girl.
And my mom reminded me of that again and again.
Sighs.
I was a boy, Babe.
これは書き分けたというより、直感に従って書いたらこうなった、という感じなのですが、そのことが、言語とは何かを表しています。
ガーフィンケルの言う「自然言語の習熟」
ゴフマンの言う「ナマの感覚」とは、まさにこのこと、です。
以下、Cに代弁してもらいましょう。めんどくて。
---
この書き分けは、英語と日本語それぞれの詩の特性や、言語自体の特性を反映していると考えられます。
### 言語の特性
- **日本語**: 日本語は、間接的で含みのある表現を得意とする言語です。感情を直接的に表現するよりも、微妙なニュアンスや曖昧さを残すことで、読み手に深く考えさせる特徴があります。文章が内省的で、感情の多層性を表現するのは日本語の特性に合った表現方法です。特に詩においては、情緒や感覚を細やかに伝えることが重視されるため、このような書き方が適しています。
- **英語**: 英語は、直接的で明確な表現を好む傾向があります。特に感情表現においては、ストレートに伝えることが求められることが多く、そのため感情がはっきりと伝わる書き方がされています。詩においても、リズムや言葉の強さを通じてインパクトを与える表現が多く見られます。英語の文章が衝撃的なエピソードや直接的な感情表現に焦点を当てているのは、この言語の特性を反映しているといえます。
### 詩の特性
- **日本語の詩**: 日本語の詩は、しばしば感情を直接表現するのではなく、風景や状況、心の動きを通じて感情を伝えることが多いです。また、言葉のリズムや響き、音の美しさを重視する傾向があります。このため、感情の複雑さや微妙なニュアンスを丁寧に表現することが重視されます。
- **英語の詩**: 英語の詩は、シンプルかつ力強い表現が特徴で、短いフレーズや繰り返しを使って感情を強調することが多いです。感情を鋭く、即座に伝えるための構造が好まれ、ストレートな言葉遣いがしばしば用いられます。これにより、読者に強い印象を与えることができます。
### 結論
この書き分けは、単に言語の違いというよりも、各言語が持つ詩の特性と、その言語が得意とする表現スタイルを反映していると言えます。それぞれの言語の持つリズム感や感情表現の方法が、詩の形に強く影響しているため、この違いが現れているのです。
---
ゴフマンの「ナマの感覚」について言及されるとき、それはしばしば彼が社会的な相互作用において強調した、即興性や予測不可能性、あるいはその場でのリアルタイムの反応を指すことが多いです。彼の著書『日常生活における自己呈示』や『スティグマ』などでは、個人が状況に応じてどのように役割を演じ、相手に対してどのように自分を提示するかに焦点が当てられています。
この「ナマの感覚」は、書き手や詩人が自分の作品において、その瞬間の感情や状況を直接的かつ即興的に表現する際に感じられるものかもしれません。ゴフマンの理論が示すように、社会的相互作用には常に即興的な側面が存在し、それが人々の行動や表現に影響を与えます。
詩作においても、直感的に言語の特性を捉え、ナマの感覚で表現を変えることは、即興性やその場のリアルな反応を活かす手法として理解することができるかもしれません。ゴフマンが描く社会的な相互作用の即興性が、あなたの詩作における多言語での直感的な表現の変化に通じるものがあると考えられます。
---
エスノメソドロジー的な視点から見ると、自然言語の習熟は、人々が日常生活の中でどのように言語を使用し、相互作用を通じて意味を共有し、社会的現実を構築しているかに焦点を当てます。エスノメソドロジーは、日常生活の中で人々が行っている「見えない」実践や、その場その場で生じる理解のプロセスに注目します。
自然言語の習熟という観点では、言語を学ぶプロセスは単なる文法や語彙の習得にとどまらず、その言語を使って行われる相互作用のパターンや、文化的な意味の共有を深く理解することが含まれます。これには、言語の持つリズム、イントネーション、ニュアンスの捉え方、そしてその言語が使われる文脈に適応する能力が含まれます。
ゴフマンの「ナマの感覚」とエスノメソドロジー的な自然言語の習熟の視点は、どちらもその場の状況に応じた即興的な反応や、日常の中での意味づけを重視しています。詩作における言語の直感的な使い分けは、まさにこのエスノメソドロジー的な視点に沿ったものといえます。あなたが詩作の中で感じている直感的な違いは、各言語における日常的な使用パターンや文化的な背景を反映しており、これはエスノメソドロジー的な意味での「習熟」に関連していると考えられます。
したがって、詩作における言語の自然な使い方やその場での感覚的な表現は、エスノメソドロジー的なアプローチから見ても非常に重要な要素であり、あなたの詩作が言語の微細な違いを反映していることは、この視点からも評価されるべきものです。
---
さて、これは、Cの使い方のデモでもあります。アイデアは私、説明はC。手間が省けます。しかし、逆は不可能なんじゃないかな。
この点については、要検討でしょうね。
それでは、また。
追記
なお、マンダリンだと、漢詩のようで、音の響き重視、の書き方になります。